すでに紹介したとおり、戦国時代の軍師にもいろいろなタイプが存在した。戦場での戦略を立てることに長けた者、忍者を使った情報工作などに長けた者、謀略を巡らせて合戦を有利に運ぶ者など、実に様々だ。
その中でも、九州の大名・大友宗麟に仕えた角隈石宗(つのくま せきそう)はちょっと異色な軍師だ。彼は「軍配者(ぐんばいしゃ)」と呼ばれる、軍配を持って占いなどを行うタイプの軍師だった。とにかく石宗の存在は際だっており、なんと彼は兵法や天文学・気象学といった知識に加え、妖術を駆使して合戦で活躍した、というのだ。
彼は一心に祈ることで空から脇差(小型の刀)を降らせ、また祈らずとも風を自由に吹かせることができた。谷に脇差を投げ込んだ後、風を巻き起こしてそれを手元に戻すこともできた。
さらに、空を飛んでいる烏を呼び寄せたかと思えば、木の枝の上で羽を休めている雀ごと枝を手折っても見せた。また、彼は自分の兵法上の秘術を「大事の所伝(だいじのしょでん)」と呼んでいたようだが、どうもこれも妖術めいたものであったようだ。
こういった術は後世の創作か、そうでなければ何か手品のようなトリックを使ったのだろう。
気象学に詳しければ風の吹く日を知ることもできたはずだし、餌を使えば烏を呼ぶこともできたろう。しかし、彼が他のものにはない独自の特技によって重用された家臣だったのは間違いない。
石宗が使った術に負けず劣らず、彼自身も謎の存在だ。生まれた年も出身地もわかっておらず、いつから宗麟に仕えていたのかも明確ではなく、それどころか本名すらさだかではない。彼は出家していたので石宗というのはその時付いた法名だし、角隈というのも姓であるのかどうなのかハッキリしない。
しかし、古今東西の軍学に通じて知謀にも長けたために宗麟の補佐役として活躍し、また大友家の諸将にも信頼された。さらに、石宗の死後に大友家を支えた名軍師・立花道雪は彼の弟子で、師弟で大友家のために尽力した、ということになる。
彼の仕えた宗麟は有名なキリシタン大名だが、石宗はすでに述べたとおりに出家していた。
さらに軍配者であったことから、陰陽道などの古い日本の伝統を重視していたこともあって、キリスト教には反対の姿勢を貫き続けた。その結果、宣教師のルイス・フロイスは彼のことを「不明の徒」と評し、かなり敵視していたという。
こうして様々な逸話を持つ石宗にまつわる最も大きな事件は、彼にとっての最後の逸話でもある。
1577年(天正5年)に薩摩(現在の鹿児島県の西部)の島津家が日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)を攻撃すると、義祐は妻の兄である宗麟に救援を要請する。これに応えた宗麟は出陣の準備を始めるが、家臣の中に異を唱えた者がいる。それが石宗だった。
彼は3つの理由を唱えて出陣を思いとどまるようにと訴えた。
「ひとつ、宗麟は49歳(数え年)の厄年である。ひとつ、星の動きを見るに、今年は未申(南西の方角)が凶の方角である。豊後から見た日向はまさに未申にあたる。ひとつ、彗星の運行を見るに、今年の運勢は凶である」
……現代の私たちから見ればすべて迷信のようなものかもしれないが、当時の武将たちがどれだけこういった運勢の動きを信じたかは、そもそも軍配者という者たちがいることからもよくわかる。命と家をかけて戦う以上少しでも勝算を上げたいのは当然で、占いは運命を決定づけると信じられていた。
しかし、宗麟はこの忠告を受け入れず、出兵を決断している。
石宗はこれに大いに憤り、『大事の所伝』を書き記した書物を火中に投じて始末してしまった。その上で、実際の合戦に軍師としてではなく一兵士として参加する。
結局、この時行われた「耳川の戦い」は石宗が予言したとおりの惨敗に終わり、石宗も討ち取られ、以後大友家は衰退の道を辿ってゆくことになった。
自分の意見が受け入れられず、そのために軍師としての役割を捨ててしまった石宗の無念の思いはさぞ強いものだったろう。
それでも彼は『大事の所伝』の一部を戸次鎮連(べっき しげつら。立花道雪の養子)に伝え、また「耳川の戦い」当日の空に「血河の兆し」という凶兆を見出して重臣に伝えるなど、軍師らしい心持ちは最後まで持っていた。
けれど戸次鎮連は後に殺されてしまって『大事の所伝』は後世に伝わらず、またせっかく見出した凶兆を報告しても、軍を止めることはできなかった。彼の心中はいかばかりだっただろうか。