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【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

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榎本秋の戦国軍師入門

本多正信といえば、家康の戦いを支えた譜代の名門・本多家の出身であり、彼自身も家康の腹心として内政や謀略の分野で大いに活躍した人物だ。
「徳川の知恵袋」「家康の懐刀」などと呼ばれ、家康が彼を「友」と呼んだことからも、彼が徳川家の中で重要な人物であったことがよくわかる。

家康が正信を寵愛したことを物語る、こんな話がある。
家康が大御所として天下を支配していた時代、町で「雁どの、佐渡どの、於六どの」という言葉が流行った。これは家康が愛した3つのものを示していて、雁とは鷹狩りのこと、於六とは当時最年少だった側室のことだ。そして、佐渡とは正信のこと(彼の官職は佐渡守だった)なのだ。そのくらい家康は彼を重く扱い、人々もそれをよく知っていた。

しかし、例えば同じ本多一族でずっと家康に仕え続け、「家康に過ぎたるもの」などと呼ばれた猛将・本多忠勝などと比べると、彼の徳川臣下としての経歴はかなり紆余曲折を経たものになっている。

その最大の原因は、正信が家康の部下でありながら、同時に熱心な一向宗(浄土真宗)門徒だったことだ。
1563年(永禄6年)に三河(現在の愛知県東部)で一向一揆が勃発し、多くの一向宗門徒の臣下が家康に逆らって一揆に参加した時、正信もまたその中にいた。
この一揆自体は翌年には鎮圧され、多くの臣下が家康の元に戻る中、彼はそのまま三河を出奔してしまった。正信は一揆勢の中で軍師を務めていたため、他の者と同じようには戻りにくかったのだろう。

その後、一向宗が「百姓の国」を実現していた加賀の国などを経て、正信は家康の元に帰還する。
帰還の時期については諸説あり、1569年(永禄12年)もしくは1570年(永禄13年)とも、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の直前であったともいう。短くて7年、最も長く考えると20年という月日を彼は放浪の中に過ごしたわけだ。これはかなり異色の経歴である。

こうした経歴ながら家康は正信を深く信頼し、様々なことを彼に相談して決めていったという。
正信もまたその信頼に応え、内政面や外交面などで様々な提案をしていくのだ。その活躍ぶりたるや、家康が秀吉死後から幕府の成立までに仕掛けた陰謀・謀略の多くが、正信の提案によるものだったと言われているくらいである。

「関ヶ原の戦い」の際には家康の後継者である秀忠についていた。
ここで彼と他の将との間で意見が食い違い、結果として先に述べたとおりに秀忠の軍は上田城に足止めされ、関ヶ原には間に合わなかった。この戦いで家康が勝利して徳川幕府が開かれると、正信は秀忠付きの重臣として大きな権力を振るう。

また、この頃に政敵だった大久保忠隣(おおくぼ ただちか)を失脚させたりしていることから、彼にはどうも悪いイメージがついて回りがちだ。
「大坂の陣」でも家康のために策を講じ(和睦の際に堀を埋めるのは彼の策だったという説がある)、その後に家康が死去すると後を追うように自分も倒れ、この世を去る。

軍師(参謀)として大きな力を振るった正信だが、実は彼の持つ所領は本当にささやかなものだった。
家康が関東に移った時にもらったのが相模の1万石、これが後に加増されて2万3千石となる。正信の縦横無尽の働きを考えればこれは大変に少ない。

この扱いの悪さについては、家康が依怙贔屓(えこひいき)をしたというのではなく、なんと正信自身が意図的に望んだものなのだ。
実際、彼は加増を断った上、さらに息子の正純に「大身代(おおしんだい)になろうと欲を出してはいけない。現在の地位で満足するのが、永く幸福を保つ道である」と教えていたのである。

なぜ彼はそこまで領地を増やすことを拒んだのだろうか? ひとつには、彼が主張した「権あるものは禄少なく、禄あるものは権少なく」という考えがあったためだ。
正信のような常に主君の傍にいるものがさらに領土という大きな力を得てしまえば、それは幕府という組織を維持していくのに悪影響しかもたらさないと考え、それを自ら実行したのである。実際、息子の正純はこの教えを破って15万石という領土を得て、のちに将軍を暗殺しようとしたという嫌疑を掛けられて失脚してしまう。

彼が本多忠勝や榊原康政といった武断派の諸将から大変評判が悪かったというのも大きな理由だろう。
前者は彼のことを「佐渡の腰抜け」「同じ本多でもあやつとはまったく無関係」と吐き捨て、後者は「味噌、塩の勘定しか知らぬ(正信が補給物資の勘定を担当していたことから出たのだと思われる)腸の腐った奴」と罵っている。
武断派と文治派の対立は多くの国でしばしば見られることで、豊臣政権のようにそれによって滅びることもある。しかし、正信は自分の所領をわざと低く抑えることで、彼らの不満を抑える材料としていたのである。

 

以上、本多正信の物語をもって、本連載を終わりたい。

ある者は主君に疎まれながらも家を支え続けて死に、またある者は志半ばに死に、そしてまたある者は自らの野望を抱きながらもかなわず、無念の中に死んだ。歴史の大きな転換点に携わった者もいるし、あくまで地方の英雄という枠に収まったものもいる。実在が明確に確認されている軍師と同じように、その行いのほとんどが架空とされる者、そして存在そのものに疑間が投げかけられている軍師までいる。

けれど、彼らに共通するのは、その人生の中でいくつもの偉業を成し遂げ、今の世に生きて歴史を振り返る私たちの胸をわくわくさせてくれる、ということなのである。

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