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【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

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榎本秋の戦国軍師入門

今回紹介する軍師たちの中で、宇佐美定満(うさみ さだみつ)はちょっと異色な存在だ。何故かと言えば、彼自身よりも、彼がモデルになった架空の人物の方が有名になってしまった軍師だからなのだ。
その名は宇佐美駿河守定行(さだゆき)、上杉二十五将のひとりに数えられる上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖……だが、まずはその前に定満本人について見ていこう。

宇佐美定満は元々、父の房忠(ふさただ)とともに越前(現在の福井県の一部)守護の上杉家に仕える武将だった。上杉家と越後(現在の新潟県の一部)守護代の長尾為景(ながお ためかげ。謙信の父)の間が険悪になると為景と戦い、父は壮絶な自刃を遂げるが、彼は長尾家に仕えるようになる。

為景の死後、長尾景虎(謙信のこと)が家督を継ぐと、1551年(天文20年)に一族の長尾政景(ながお まさかげ)がこれを不満として挙兵する。定満はこの戦いに参加して功績をあげ、謙信と政景は講和する。以後、政景は謙信の重臣として活躍するが、どうもその胸中にはいまだ野心の炎が燃えていたのではないか、と見られる。

そして1564年(永禄7年)、政景は謎の死を遂げる。この時、彼は定満に信濃の野尻湖での船遊びに誘われていて、死んだのはその船の上でのことだ。さらに定満もまたこの時同じように死んでいる。
その死因には諸説があるが、両人が泥酔して池の中に飛び込んだとも、定満が政景に抱きついてもろともに溺死したのだとも言われる。政景の死体に傷があったという話や、定満と謙信が政景の暗殺について相談していたという話も伝わっているため、定満が主君の政敵を自らもろとも葬り去ったのだ、ともされているのだ。

そんな定満がモデルになったのが、宇佐美駿河守だ。
宇佐美駿河守は元々仕えていた主君に見切りをつけて京に流れ、そこで謙信にスカウトされた。
以後、謙信の軍師としての彼の活躍は目覚ましい。謙信に宇佐美家に伝わる兵法の奥義を授け、また越後に鉄砲を伝えたのも彼だ。さらに伊賀・甲賀といった忍者たちを配下とし、諜報活動をさせていた。また、彼が興したとされるのが宇佐美流(うさみりゅう、宇佐美神徳流)という軍学である。

謙信が長尾家を継いだ時には政治工作も行い、政景との戦いでも活躍する(これは実際の定満の活躍を元にしているようだ)。また、1560年(永禄3年)の小田原城攻めの際には、敵方の攻撃をいち早く見取って謙信に進言している。
さらに、翌年の「第4次川中島の戦い」の時にも謙信の軍師として彼の傍らにいた。山本勘助の「啄木鳥戦法」を見破り、これを打ち破るために妻女山を下りて敵を攻めるように進言したのもまた彼だったのである……。

彼の最後を飾るのが、野尻湖での変死だ。彼について語った本では、駿河守は主君の潜在的な敵である政景を消すために船遊びに誘い、明確に殺意をもってこれを殺し、自分も命を落とした。
軍神とも呼ばれる上杉謙信に仕えた名軍師の死としては実に潔く、立派なものであるといえる。

すでに述べたとおり「宇佐美駿河守」は架空の存在だ。
これを創作したのは、江戸時代初期、紀州藩に仕えた軍学者の宇佐美定祐(うさみさだすけ)という人物である。彼は自分が書いた本の中に自分の先祖として宇佐美駿河守という人物を登場させ、大いに活躍させた。それが、伝説の軍師・宇佐美駿河守の由来なのだ。
では、なぜ彼はそんなことをしたのだろうか?

それは、当時「武田信玄の兵法」として流行っていた甲州流軍学(『甲陽軍鑑』を書いたとされる小幡景憲(おばた かげのり)が興した軍学)に対抗するためだった。
山本勘助を超えるほどの知謀を持ち、上杉謙信に軍学を教えたほどの人物が自分の宇佐美流の祖である、と権威付けをして軍学の宣伝をしたのである。

先ほど挙げたような功績もすべてはそのための創作だったのだ。自分の先祖の功績を過大に喧伝し、それを元に自分の権威を高めるのは、今も昔も常套手段であるようだ。
それにしても、この時活躍したとされる2人の軍師のうち、武田側の山本勘助には架空の人物説が根強く、上杉側の宇佐美駿河守は架空の人物なのだから、これもまた何かの因縁というものかもしれない。

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