九州の三強といえば大友・龍造寺・島津の三家だが、他にも多くの小豪族たちがこの地に勢力を持っていた。
そのひとつが肥後(現在の熊本県)の阿蘇家だ。元は阿蘇神社の大宮司の家系だったが、同時に有力な豪族として周辺を統治していた。
その阿蘇家に忠実に仕えた名軍師が甲斐宗運(かい そううん)だ。宗運は出家後の名前で、それ以前は親直(ちかなお)と名乗っていた。政治面・軍事面の両方で活躍し、阿蘇家を支えた。
阿蘇家は南北朝の時代まで痕跡を辿れる古い一族だが、その長い歴史は同時に内紛の歴史でもある。何度か統一されたこともあったが、結局は分裂して相争うのが常だった。
実際、宗運が活躍した時代にも阿蘇家は分裂していた。阿蘇惟長(あそ これなが)・惟前(これさき)父子と一族の惟豊(これとよ)が争い、敗れた惟豊は日向の国に逃れる。ここにいたのが宗運の父、甲斐親宣(かい ちかのぶ)だった。惟豊は親宣の力を借りて惟長・惟前に再戦を挑み、これを破る。これを機に親宣は惟豊の家老となって活躍し、彼が病に倒れると会議が進まないほどに大きな影響力を持つことになった。
そんな父の跡を継いだ宗運もまた活躍を重ねる。彼が最初に歴史に登場したのは、1541年(天文10年)に阿蘇家の重臣・御船房行(みふね ふさゆき)が島津氏の誘いにのって起こした反乱の時だった。宗運はこの反乱を見事に鎮圧し、御船城を与えられる。
こうして阿蘇家を取りしきるようになった宗運だが、周囲の状況はけして平穏なものではなかった。大友・龍造寺・島津の三大勢力の脅威に常に晒されていたからだ。そこで宗運は、北は大友と結んで安定を確保し、西は相良と結んで島津に対する抑えとした。
しかし、阿蘇惟将の代になった1578年(天正6年)に、「耳川の戦い」で大友が島津に大敗すると状況はまた変わってくる。宗運は義を通したのかしばらくは斜陽の大友を見捨てず、反大友を掲げて兵を起こした周辺城主たちの連合軍を破っている。
だが、ついに1581年(天正9年)、宗運は大友を見限って龍造寺に臣従する。すると、一方で同盟を結んでいた相良義陽(さがら よしひ)が島津に降伏する。島津は当然のように相良に阿蘇家攻めを要求し、ここにかつての盟友同士が戦場で相まみえることになった。
義陽は軍を率いて出陣し、響野原原(ひびきのはら)に陣を敷く。この報告を聞いて宗運は驚いたという。その軍の配置は義陽ほどの将のものとは思えなかったからだ。宗運は「みずから死地を選んだとしか思えぬ」と、かつての盟友の心を思って呟いた。
それでも戦いに手を抜くわけにはいかない。宗運は敵に気付かれぬように静かに相良軍に接近し、さらに戦力を二手に分けて挟撃する。この奇襲によって相良軍は壊滅するが、義陽はあくまでも退却せず、床几(しょうぎ)に座したまま戦死する。
戦後、宗運は義陽の首を見て涙して合掌した。
さらに心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、彼を哀悼してやまなかった。そして、島津を抑えてくれていた相良の消えた今、阿蘇家もまた2年以内に滅びるだろうと言って嘆息したのである。
島津に「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」とまで言わしめた名将・宗運の死は1583年(天正11年)もしくは1585年(天正13年)のことだった。彼は主家に忠誠を尽くすあまり家族への情に欠け、二男・三男・四男をそれぞれ殺していた。そのせいで、その死には孫娘による毒殺という疑惑がかかっている。
実は生前、弟たちを殺されたことに反発した嫡男の親英(ちかひで)が父の排除を目論み、これに失敗して自分が殺されそうになったことがあるのだ。この時は家臣たちの取りなしによって事なきを得たが、これに憤懣(ふんまん)を募らせた人物がいた。それが親英の妻だった。なんと彼女はかつて父を宗運に暗殺されており、その時の恨みも合わせて宗運を殺そうと考えたのである。
しかし、彼女は「父の殺害を恨まず、宗運に復讐を企てない」という誓約を立てさせられていた。
これを破れない彼女は代わりに娘に毒を盛らせ、父の仇を取った……というのが、宗運毒殺説だ。主君のために忠誠を尽くした名将の死としては何ともやりきれない悲劇といえるのではないだろうか。
ちなみに、阿蘇家が滅んだのは1585年(天正13年)、「響野原の戦い」から4年後のことだ。親英が不用意に島津家を攻めたことが滅亡の原因となった。