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【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

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榎本秋の戦国軍師入門

戦国時代の武将の中には、真田幸村や武田信玄のように本名ではない別の名前の方が有名な人物が数多くいるが、この片倉景綱(かたくら かげつな)もまたその中のひとりだ。
彼のもうひとつの名前は「片倉小十郎(こじゅうろう)」。そう、「独眼竜」の名も高き隻眼の名将・伊達政宗の、右腕ならぬ右目として活躍した軍師だ。

彼は元々武士の出身ではなく、出羽(ほぼ現在の山形県と秋田県)米沢の成島八幡宮(なるしまはちまんぐう)の宮司・片倉景重の子として生まれた。彼の腹違いの姉(姉ではなく母とも)が政宗の乳母を務めたため、伊達の武士団に組み込まれることになったのである。
まず伊達輝宗(政宗の父)の徒小姓となり、のちに聡明さをかわれて重大な役割を任せられることになった。輝宗の嫡男、梵天丸――のちの政宗の守役に抜櫂されるのだ。景綱19歳、政宗9歳の時のことだった。

政宗の教育係となった景綱は、彼がのちに名将と呼ばれるようになるための素地を鍛えていく。この頃の逸話として、景綱の剛胆さと主君との絆の強さを示すものがひとつ伝えられている。

政宗は幼少の頃に疱瘡(天然痘)の病にかかり、高熱の末に右目の光を失っていた。しかもそれだけでなく、右目は膿んで飛び出していたため、彼はそのことに強いコンプレックスを感じ、陰気な少年だった。
そこで政宗は近従たちに右目を斬って潰すように命じる。誰も命令通りにしようとはしないなか、名乗り出たのが景綱だ。小刀を抜くと右目を突き、患部ごと刺し潰してしまった。この時に政宗はあまりの激痛で失神してしまい、家臣のひとりがその振る舞いを咎めるが、景綱は堂々と「一国の主となる者がこのくらいのことで家臣を頼るとは情けない」と一喝するのだった。

片目を失った事件の後生まれ変わったように活発になった梵天丸は、11歳で元服して伊達政宗を名乗り、15歳で初陣を飾る。この初陣の実質的な戦闘の指揮を執っていたのは景綱だ。
さらにその3年後には父の輝宗が隠居したために、政宗が伊達家を継ぐことになり、周辺各大名や身内(母親は彼を疎み、弟に伊達家を継がせようと企んでいた)を敵に回しての彼の過酷な戦いが始まる。

そんな中、景綱は常に傍らで彼を補佐しつづけた。
まず、1584年(天正12年)に政宗が家を継いだばかりで会津の檜原(ひばら)というところを攻めた時のことだ。この場所には穴山新右衛門(あなやま しんえもん)の一族がいて、政宗の父輝宗が3度攻めてもなお落とせなかった。
そのため家臣も皆これに反対し、さすがの政宗も弱気になったところで、景綱が調略を練る。穴山一族の一部を寝返らせ、彼らが新右衛間を風呂に招いたところで殺してしまったのだ。こうして政宗は見事に檜原を手に入れた。

政宗を東北地方を代表する戦国大名にした、1589年(天正17年)の「摺上原(すりあげはら)の戦い」でも景綱は活躍する。彼はこの戦いに先だって自ら敵対する蘆名氏の重臣・猪苗代盛国(いなわしろ もりくに)のもとに赴いて彼を調略し、味方に付けることに成功した。

「摺上原の戦い」での双方の戦力はほぼ同等だったが、直前に重臣のひとりが寝返っていたこともあって敵方は結束力が弱くなっていた。序盤は蘆名側が優勢だったが、風向きが変わったのと同時に伊達軍が押しだし、そこで裏切りが起きて蘆名側は崩壊してしまった。こうして、「摺上原の戦い」は政宗の圧勝に終わったのである。

こうして大きな勢力を獲得したことで、政宗には新たな問題が持ち上がる。
それは、この頃まさに天下人となろうとしている関白・豊臣秀吉との対立だった。政宗は同じように秀吉と反発する関東の北条家と手を結ぶ。しかし、北条家は1590年(天正18年)に秀吉の大軍に攻められ、政宗のところにもその攻撃に参加するようにと命令が下る。この時、勇猛果敢な伊達成実が国に籠もっての徹底抗戦を主張し、政宗自身も秀吉と戦うことを考えていた中、ひとり会議で沈黙する人物がいた。それが景綱だ。

これに気付いた政宗は夜にこっそりと彼の家を訪れ、改めてどうすればいいのかを尋ねる。すると彼は団扇で物を払う仕草をしてから、「夏の蠅は払っても来るもの。結局は疲れて敗れることは必定でしょう」と答えた。
秀吉の軍は大軍だけに、一度破っても何度でも攻めてくるだろう、と示唆したのである。

こうして政宗は、北条の本拠地・小田原城を攻めている秀吉軍に合流することになったのだが、他国の勢力圏を迂回する必要もあって、どうにか辿り着いた頃には戦いももう終盤にさしかかっていた。秀吉は参戦が遅れたことにひどく立腹しており、なんとか秀吉の怒りを和らげなくてはならない。
そこで再び景綱が知恵を出した。まず最初に秀吉の陣地を訪れた時、政宗は髪を短く切りそろえて垂らし、甲冑の上に白い陣羽織を着た、いわゆる死に装束の姿をしていた。ここでは秀吉と会うことができなかったが、数日後に彼の使者がやって来た。そこで政宗は、この陣中にいる千利体に茶の道を教授して頂きたい、と言い放つ。

白装束の決意と命の掛かった状況での不敵さに感心した秀吉は翌日政宗と会い、「もう少し遅れていたらここが危なかったぞ」と、頭を下げる彼の首筋を杖で突き、笑ってみせた。
秀吉の性格を読みきった景綱の演出によって、伊達家はその命運を保ったのである。

こうして伊達家は秀吉に従う形になったのだが、ある時景綱のところにこんな話がやってきた。なんと、陸奥の国に5万石の領地を与え、景綱を大名として取り立てる、というのだ。
有力大名の重臣を自分のもとに引き込もうとするのは、秀吉が多用した策だ。しかし、これも景綱にはお見通しだった。一度は5万石を受け取るそぶりを見せて秀吉の顔も立てつつ、やはり主君に対する忠誠を貫きたいのだと申し出てこれを断った。

彼の忠誠に政宗も応える。秀吉の死後、徳川が天下を支配し、一国一城令が敷かれて多くの城が破壊されたが、政宗の仙台藩の中で彼の白石城だけが特例として残された。以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続け、仙台藩では御一家として扱われ続けた。

景綱自身はのちに病に倒れ、伊達家も徳川方で出陣した「大坂の陣」には参加できなかった。しかし、冬の陣への出陣前の息子・重綱(しげつな)に「おそらく初めは和睦して堀を埋めるが、その後に本当の合戦が待っているだろう。決して猪突猛進になってはいけない」と伝えている。

実際に徳川と豊臣は一度は和睦したものの、謀略によって大坂城の堀が埋められ、続く夏の陣で豊臣家は滅亡する。病床にあっても景綱の目は確かだった。
そして冬の陣が行われた1615年(元和元年)、彼はそのまま息を引き取ってしまったのだ。その死を聞いた政宗はすぐさま家臣を派遣して名馬を贈り、弔意を示した。また、6人もの伊達家臣が殉死(後を追って死ぬこと)し、彼が家中でも慕われていたことがよくわかる。

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