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【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

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榎本秋の戦国軍師入門

信長の仇である明智光秀を討って以来、秀吉の快進撃は続いた。
まず「賤ヶ岳の戦い」において旧織田家臣団で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。
こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。

長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(それぞれ現在の徳島・香川・愛媛)の三国を返上するようにという要求を当然の如く却下する。
そこで秀吉は弟の秀長を総大将とする軍を四国に派遣する。それが1585年(天正13年)のことだった。この時、秀吉に臣従していた中国の大名・宇喜多家と毛利家からも兵を出させた。

この時は阿波から侵攻する秀長、讚岐から侵攻する宇喜多秀家・黒田官兵衛・蜂須賀正勝、そして伊予から侵攻する吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」と、総勢12万余(8万や10万という説も)の大軍が3方向から一気に雪崩れ込んだ。
しかし、元親も四国を統一した英雄だ。十分な備えはあった。彼は阿波の白地城(はくちじょう)に本拠を構え、海岸線沿いの防備を構えて秀吉軍を待ちかまえる。

こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。
この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時に攻めにくい城でもあった。ここに敵を誘い込んで時間を稼がせ、その隙に自分の軍でもって後ろから攻め込み、挟撃する。それが彼の戦略だったのだ。

しかし讃岐を進撃する中で、あまりの敵の脆さと、彼らが植田城の方へ逃げていくことを不審に思った人物がいた。それが官兵衛だ。
彼は元親の企みを看破すると植田城を攻めず、軍を海岸線に沿って移動させて阿波の秀長軍と合流、まずは阿波を攻め落とそうとしたのだ。元親の策も考え抜かれたものだったが、官兵衛はその上を行ったわけである。

さらに阿波を巡る戦いでも官兵衛は活躍する。それは岩倉城という城を攻めている時のことだった。この城もまた阿波の重要拠点で、攻めるに難しく兵の意気は軒昂、指揮官は元親の叔父で猛将と名高い親吉と、力攻めするのも謀略を仕掛けるのも難しい相手だった。

そこで官兵衛が仕掛けたのは水攻めだ。まず近くの吉野川から水を引いて城を孤立させ、その一方で大砲を散々に撃ちかけ、また兵たちに何度も関の声を上げさせる。高松城のところで触れたように水攻めは食糧を駄目にして水の補給を妨害するのでただでさえ兵の士気は落ちる。

その上、頻繁に轟音に脅かされたのでは戦にならない。結局、岩倉城は戦うことなく明け渡され、名軍師・官兵衛の名はさらに高まることになる。
こうして讚岐・阿波で敗れ、またそれに前後する形で毛利軍にも伊予を落とされていたため、元親は秀吉軍に降伏する。秀吉は彼に土佐一国のみを安堵し、他の三国はそれぞれ部下たちに与えたのだった。

この四国征伐は大軍によって一気に決着がついた戦いでもあったが、元親が戦上手なだけにもっと長引く可能性は十分にあった。それをスピード解決に導いた要因のひとつが官兵衛の見事な策略にあったのは間違いない。
この後、秀吉は九州を席巻しつつあった島津家を九州征伐で押し返して傘下に入れ、さらに抵抗する北条家を小田原征伐で壊滅させ、天下統一を完成させるのだ。

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