岩倉城は三好康長(笑岩)の子である三好康俊が城主をつとめた城です。脇城主・武田信顕と連携してこの地方一帯を支配していましたが、長宗我部元親が侵攻すると降伏しています。さらに羽柴秀吉の四国攻めでは豊臣秀次らによって攻められ再び落城しました。その後、蜂須賀家政が阿波に入国すると、脇城が「阿波九城」として整備されたため廃城となりました。現在城址には本丸跡周辺にわずかに堀切が確認されるのみですが、本丸の南側に案内板が建てられており、康俊のものと伝わる墓があります。
岩倉城に関するデータ 情報の追加や修正
110 m( 50 m)
内郭:-- 外郭:--
小笠原長房
着工 鎌倉時代か
1582年(天正10年)
三好康俊、長宗我部氏
曲輪、堀切、切岸
項目 | データ |
---|---|
曲輪構成 | |
縄張形態 | 山城 |
標高(比高) | 110 m( 50 m ) |
城郭規模 | 内郭:-- 外郭:-- |
築城主 | 小笠原長房 |
築城開始・完了年 | 着工 鎌倉時代か |
廃城年 | 1582年(天正10年) |
主な改修者 | |
主な城主 | 三好康俊、長宗我部氏 |
遺構 | 曲輪、堀切、切岸 |
指定文化財 | |
復元状況 |
更新日:2024/04/19 03:43:47
項目 | データ |
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アクセス(電車) |
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アクセス(クルマ) |
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駐車場 |
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