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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

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繰り返すが、籠城の勝利条件は援軍が来るか、相手が諦めるか、のどちらかであることがほとんどだ。こうなると、敵の大軍に取り囲まれ、救援の来ない城が持ちこたえるのは難しい。
しかもその城が、敵対する二つの勢力の境界線上にあり、片方から強い敵意を受けている場合はなおさらだ。味方も来ない、諦める様子もないでは、残された選択肢は玉砕しかない――播磨の上月城(兵庫県佐用郡)にまつわる物語は、そのような悲劇の最たる例といえよう。

上月城は鎌倉時代の正治年間に築城されたといわれている。
南北朝時代にはここを居城とする赤松氏によって増改築され、以後何度かその主人を変わった。播磨・美作・備前三ヶ国の境にあたり、かつ因幡にも通じることから、中央から中国地方の奥に進むにしても、あるいはその逆をたどるにしても、必ず押さえておかなければいけない要地といえる。
戦国時代後期、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田軍が中国侵攻を進めた際には毛利氏傘下の赤松政範が拠点としていたが、秀吉によって攻め滅ぼされる。

その後、秀吉の命を受けて上月城主として入ったのが、尼子勝久(あまご かつひさ)だ。彼はかつての中国二強の一角、尼子氏の分家の血を引いている。
出家していた勝久は尼子が毛利に攻められて降伏した後に還俗。「願わくは我に七難八苦を与え給え」と願ったことで有名な山中幸盛(鹿介、鹿之助とも)に代表される尼子残党に担がれて、御家再興運動を行っていた。これに目をつけた秀吉が、「毛利氏に対抗するための盾」として尼子氏を再興させ、前線に配置した、というわけである。

もちろん、毛利氏としてはこれを放置できない。
尼子氏が織田氏の力をバックに復活すれば、毛利氏の基盤を揺るがす可能性がある、と考えるのが当たり前だ。単純な攻撃目標という以上の情熱をもって、上月城を攻め落とす――いや、尼子残党を滅ぼすために動き出す。
結果、翌年には小早川隆景・吉川元春らの軍が上月城を包囲してしまった。この頃、城側には十分な蓄えがなく、食糧や水はあっという間に底を尽いた。

秀吉としては上月城も大事だったし、同じくらいせっかく再興させた尼子残党を見捨てるわけにもいかなかっただろう。
戦国武将というのは徹底的なリアリストでありつつも、「面子」や「正当性」を大事にするもの。これからさらに中国地方の奥へ踏み込んでいくにあたっては、「元・中国二強の一角」という看板が大きな役割を果たしてくれるはずなのだ。
秀吉は早速後詰として出陣し、毛利軍を威嚇するのだが、この後の展開がよくなかった。時を同じくして織田方より謀反していた播磨三木城の別所長治の存在が大きな問題となり、中国東部におけるパワーバランスが一気に崩れつつあったのだ。

それでも、秀吉としては折角手塩にかけて育ててきた尼子残党を見捨てられなかったのか、しばらくはここに留まっている。だが、それも信長から三木城攻撃を命じられるまで。
信長は尼子残党を見捨てたのであり、こうなっては秀吉にできることは何もなかった。

織田軍は撤退して三木城の包囲に移り、残された上月城の尼子氏には降伏以外の道がなかった。
3万余りの毛利軍に対し、籠城側は数百程度しかなかったから、これはもうどうしようもない。勝久以下主だった者数人の切腹と引き換えに、城兵の命を助けるという条件で降伏が成立し、ここに秀吉が一時復興させた尼子氏は滅亡したのである。
ちなみに、あの山中幸盛は捕らえられて殺害された。毛利軍が彼を危険視し、命を助けるという約束を破ったのだろうか。あるいは、勝久の死後も尼子再興の野心を捨てなかった、ということなのかもしれない。もしそうだとするなら、天晴れな執念ではある。

ただ、尼子の残党が完全に壊滅したわけではなく、幸盛の娘婿である亀井茲矩(かめい これのり)が秀吉の下で大名となり、この家が幕末まで続いた。
その後、上月城には一時期別の武将が入ったものの、結局廃城となっている。

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