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【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

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立花宗茂と丹羽長重はそれぞれに苦労をして、お家再興にこぎつけたわけだが、いってしまえば所詮は数年の浪人生活を過ごしたに過ぎない、といえる。
このふたりはもともと豊臣政権の中枢に近いところにいて、親交のある大名も多く、徳川家康・秀忠といった将軍たちの覚えもめでたかったから、再興活動もやりやすいところがあったのかもしれない。

実は、彼ら以上に苦労し、改易から15年を経てようやく再興にこぎつけた苦労人大名がいる。その名は、岩城貞隆(いわき さだたか)。
岩城家は平繁盛(平安時代に関東で反乱を起こした平将門の従兄弟)の末裔にあたり、陸奥国の磐城地方に大きな勢力を持っていた一族である。戦国時代には常陸国の佐竹家と結んで仙台地方の伊達家と激しく争ったが、時の当主・常隆は豊臣秀吉の北条攻めに参加した帰途、病に倒れてしまう。この機に乗じた佐竹義重(鬼の勇名で知られる戦国大名)は、常隆に実子がいるにもかかわらず自身の3男・貞隆を養子として押し込み、実質的に岩城家12万石を乗っ取ることに成功する。
ここから「岩城貞隆の物語」が始まるわけだ。

貞隆の運命が大きく動いたのは、やはり関ヶ原の戦いの時のことである。といっても、岩城家は西軍に味方したわけではなかった――だからといって、東軍に味方したわけでもない。どちらにもつかず、中立の姿勢をとったのだ。それも、貞隆自身の意思によってではなく、兄・佐竹義宣に命令されてのことだったようなのである。
北関東に54万石余を有する大大名であった義宣は、もともと親・三成派であった。したがって、関ヶ原の戦いに先立つ東軍の上杉征伐には参加せず、またいよいよ三成ら西軍が挙兵して家康から出陣要請が出ても、動こうとしなかった。

この時の兄・義宣の意図がどこにあったのか――西軍との密約があって機会を待っていたのか、両方に義理立てして戦わなかったのか、それともただただ迷っているうちに戦いが終わったのか――は判然としていないが、ついに佐竹家が動かなかったこと、それゆえに実質的な佐竹配下である岩城家も動かなかったこと、それは確かである。そして、どうやら貞隆は徳川方について出陣したかったようなのだが、兄がそれを許さなかったらしいのだ。

関ヶ原の戦いの翌年、処分が下る。なんと、岩城家は改易され、所領をすべて没収されてしまったのである。このさらに翌年、佐竹家にも処分が下ったのだが、こちらは出羽国秋田20万5千石余への転封というもので、厳しくはあったが、お家取り潰しとは比較にならない。東軍につこうとした岩城が所領没収、最後まで中途半端だった佐竹は転封で済んだとあっては、貞隆はさぞ不公平感を噛み締めたのではないか。
しかし、佐竹一門は後述する相馬家も改易されたし、岩城家と同じく佐竹義宣の弟が養子として入った蘆名家も改易されていて、岩城家だけが処分を受けたわけではない、というのは押さえておくべきポイントだろう。

執念の再興

このことが原因だったのかどうかはわからないが、浪人となった貞隆は兄を頼ろうとはしなかった。あくまで独立大名としての再興を目指したのである。改易となればほとんどの家臣は離散してしまう――会社が倒産したのに、わざわざ社長に付き従う社員はあまり多くない――ものだが、貞隆には42人の家臣がついてきた。彼らとともに江戸は浅草に移り住んで、幕府に働きかける。

さすがにいきなりの大名復帰はかなわなかったが、翌年には家康の参謀として名高い本多正信の家臣となる。彼の下で大坂の陣にも出陣し、その戦功によってついに1616年(元和2年)、信濃国は川中島に1万石の所領を与えられ、大名に戻ったのである。改易から15年の月日が経過していた。
この再興については、当時の主君である本多正信の回添えがあったのかもしれないし、このころには和解していて資金援助などもしてくれたという兄・義宣も後押しをしてくれたのかもしれない。家康のブレーンとして活躍した僧侶・天海と縁があり、そこから働きかけてもらった、という説もある。

しかし、15年という月日が流れてもなお辛抱をし続けた貞隆の執念こそが、最大の要因だったのではないか。ただ、これで力尽きたのか、貞隆は再興の4年後に病没する。跡を継いだのは嫡男の吉隆で、彼の代に出羽国亀田2万石に転封され、以後岩城家は明治維新まで続くことになる。

岩城家にまつわる数奇な運命

最後に、この岩城家にまつわる数奇な運命の物語を紹介しよう。
まず、貞隆の跡を継いだ吉隆だが、なんと本家筋にあたる佐竹家の義宣に跡継ぎがいないということで養子にもらわれ、義隆と名乗って佐竹家当主になってしまったのである。岩城家の血筋は宣隆(義宣・貞隆の弟)が継承していくことになる。

もうひとつ。血筋が途絶えそうになった際に他家から養子をもらってくるのは江戸時代では別に珍しいことではない。ただ、江戸時代中期に岩城家の7代目当主となった岩城隆恭は仙台藩の伊達一族の出身だが、実はこの家系こそが(間に養子を挟んではいるのだが)「本来の岩城家」当主なのである。

前述したように貞隆は本来岩城家を継ぐはずだった常隆の子を押しやる形で岩城家を継承した。
追いやられた当の本人――岩城政隆は祖父・親隆が伊達家の出身(伊達政宗の叔父にあたる)だったことから親戚関係を頼って伊達家に逃れ、「伊達」姓をもらってその一族となっていた。
そして、政隆の子孫こそ隆恭だったのだ。なんともはや、数奇な運命をたどった一族といえよう。

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