「麒麟がくる」第1回にはさまざまな印象的なシーンがあったが、京都にやってきた光秀と松永久秀が邂逅する場面はその中でも記憶に残っている人が多いはず。胡散臭く、人懐っこく、それでいてどこか妙に義理堅い久秀の姿は非常に魅力的なものである。
そもそも、光秀と久秀には似ているところが多い。一つは、信長に謀反を起こしていること。そしてもう一つは、前半生がよくわからないことだ。久秀は阿波生まれとも、京都西岡の商人だったとも、摂津の百姓だったともいうが、今のところ確実な証拠はない。
はっきりわかっているのは、畿内で新興の実力者となっていた三好長慶の側近として歴史の表舞台に現れた、ということだ。やがて三好一族の中で長兄に匹敵する実力者となっていった彼は、長慶が亡くなるといよいよ頭角を現す。
三好一族の有力者である三好三人衆と手を結んだ久秀は、将軍権力の確立を目指す足利義輝と対立。これを死へ追い込む。
その後は三人衆とも対立して一進一退の激しい闘いを繰り広げていた(この時期に大和東大寺が燃え、長く久秀の行いであると信じられていたが、実際には三人衆側のやったことであるらしい)ところ、義輝の弟・義昭を擁立して織田信長が上洛してきたため、久秀はこれに降伏。以後、織田家臣として大和を中心に活躍することになる。
ただ、久秀という男の面白いところはこれからだ。なんと、信長に対して二度に渡って反旗を翻すのである。
一度目は1571年(元亀2年)で、これは信長がいわゆる「信長包囲網」の前に窮地に追いやられていたときのことだ。しかし、1573年(元亀4年)に包囲網の中心人物であった武田信玄が病に倒れ、義昭も京都から追われると、信長に降伏。命を許された。
このあたりは信長が「意外と家臣に甘い」と見られるゆえんだが、大和守護の地位を没収されるなど、厳しい処置もあったようだ。
そして、二度目だ。1577年(天正5年)、久秀は再び信長に反旗を翻している。この時は、上杉謙信らで構成される「第二次信長包囲網」に呼応するものであったようだが、すぐさま包囲され、追い詰められてしまう。
結局、久秀が選んだのは自決であった。その様を聞いて、光秀は何を考えただろうか。彼が信長に逆らうにあたって、久秀の死から何がかしかの影響を受けていてもおかしくはない。
なお、有名なエピソードとして「平蜘蛛と呼ばれる茶器に火薬を詰めて爆死」というものがあるが、これも俗説と考えたほうが良さそうだ。ただ、あまりにも有名で、かつ面白すぎる話なので、しばしばドラマの中で取り入れられてきた。
「麒麟がくる」でも爆死に期待している人は多いのでは。