いよいよはじまったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、おもしろかったですね。
放送時間を延長してるとはいえ、第一話で「十兵衛のはじめてのおつかい」をあっさり「巻き」で終わらせるなど、さすが池端俊策さんの脚本だなあと感心しました。ドラマの初回はどうしても登場人物の顔見せになりがちですが、じつにテンポよく序盤の主要キャラを紹介していったと思います。
またとくに大河ドラマの場合は子役を使った幼少時代から描くことが多いものの、今作は(光秀の前半生が謎だということを逆手に取って)青年期から描いたのは大英断だと思います。子役を使わない点では「真田丸」に通じるところもあって、今後の展開も期待できそうです。
まだ何者でもないひとりの青年「十兵衛」――それも美濃の国を出たことのない若武者が、はじめて鉄砲を目にしたり、京や堺を見聞する様子を描いたというのは新鮮でした。加えて「本能寺の変」から逆算して見るのではなく、なぜこの青年が歴史的大事件を起こしたのかという疑問をいだきつつ、この十兵衛に寄り添って一年を見ていくのは楽しいだろうなと感じました。
途中、琵琶湖を船で進んでたけど、美濃から出たことがなければ川舟以外に乗ることもはじめてだったはずなので、もっと驚いてもいいんじゃないかと思ったけど、まあそこまで描写してると長くなるのではしょったのでしょうね(馬は預けたのか?)。
あえて説明しないのもよかったと思います。
十兵衛の行脚ルートを示す地図にはちゃんと巨椋池も描かれていたし、ちょいちょい三好家の家紋が入ったのぼり旗が写りこんでいたのもいい。
斎藤道三が父と二代で美濃を乗っ取ったとか、帰蝶が土岐頼純に嫁いでおり信長の正室となったのは再婚であったとするのも、最新の学説が反映されていていいですね。まあ義龍の父親が土岐頼芸という説は根拠が薄そうだけど、このへんは親子対立の原因としてドラマ化するには使いたくなる説ですしね。
ありがたいことに攻城団のアクセスも多かったです。
みなさんドラマに登場した明智城や稲葉山城で検索されていて、今年は攻城団にとっても麒麟と追い風がやってきそうな予感がします。
せっかくなので、ドラマに登場したお城について少しだけ紹介しましょう。
明智城――明智光秀出生地の候補地のひとつ――
「麒麟がくる紀行」でも岐阜県可児市が紹介されていましたが、この「麒麟がくる」では明智光秀の出身地を可児市瀬田長山の明智城(明智長山城)としています。
榎本先生のコラムでも紹介されているとおり、土岐明智氏は鎌倉時代後期に可児市周辺に土着し、東美濃に強い影響力を持った一族でした。
光秀がその出身かどうかは現時点では確定できる情報はないものの、有力候補地のひとつとして考えられていますので、今回はこの明智城(=可児市)出身説を採用したのでしょうね。
ちなみにほかの候補地としては、恵那市明智町、山県市中洞(旧美山町)、大垣市上石津町、瑞浪市土岐町と岐阜県内に多数あり、最近は滋賀県犬上郡多賀町の説が滋賀県教育委員会から発表されるなど、信憑性の大小はあれどいろんな説があります。
さて、その明智城ですが、『美濃国諸旧記』には明智光秀の叔父である光安が城主であったと書かれており、「麒麟がくる」でもそれを採用したようです。
なおこの史料には1556年(弘治2年)に稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けて落城したともあるので、学友として光秀と良好な関係のように見えた義龍との間にどういう変化があったのかもドラマの見どころですね。
なお城址北麓にある天竜寺には 明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所があり、光秀の出生地かどうかはさておき、明智氏や光秀となんらかの関係がありそうな気もします。
稲葉山城――道三の居城はのちに信長が岐阜城に改名――
斎藤利政(のちの斎藤道三)の居城として登場したのが稲葉山城です。
のちに織田信長がこの城を岐阜城と改名するわけですが、斎藤利政が山頂にあった砦を改修して城を築きはじめたのは1539年(天文8年)頃とされています。といっても天守があったわけでなく、おそらくは人工的な削平地(曲輪)をつくって、「詰の城(つめのしろ)」として多くの民や兵が籠城できるようにしたのではないかと思います。
「詰の城」というのは戦時(有事)の際に逃げ込むために築いた城のことで、戦国時代初期の定番でした。「詰城(つめじろ)」ともいいます。
山麓に平時に暮らす居館があり、敵に攻められた際には山上の詰の城に退避して味方の援護を待ったり、時間稼ぎをしました。当時は農民兵が多かったので、田植えや収穫などの時期がくると撤退するしかなかったので籠城側にとって持久戦は有効な戦法でした。
「おんな城主直虎」で登場した井伊谷城も山麓の居館と、山上の詰城という構成だったのを覚えてる方も多いと思いますが、この居館と詰城のセットでお城だということはおぼえておいてください。
「麒麟がくる」の第1回は1547年(天文16年)の設定で、利政(道三)が城郭を整備してから10年近く経過しています。
この年には織田信長の父である織田信秀が稲葉山城下まで攻め込んできます(加納口の戦い)ので、おそらくドラマでもこの攻防戦が描かれるのではないでしょうか。
明智光秀がこの戦いに参加した記録はないものの、参加しなかった記録もないので(参加していたとしても記録されるほどの地位になく、また手柄も挙げていないと考えることもできる)、池端さんがどんな脚本にされるのか楽しみです。