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【戦国を彩る名軍師たち】独眼龍に助言を与え続けた片倉景綱

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戦場でもそれ以外でも常に大名のそばに付き従い、様々な局面で助言を与える側近・参謀・腹心というのも戦国時代における軍師の代表的なあり方といっていいだろう。
今回は「奥州の独眼龍」伊達政宗をその幼少期から支え続けた片倉景綱(通称の「小十郎」が有名)を紹介する。

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(仙台市博物館所蔵)

景綱はもともと米沢八幡社という神主の子であったが、伊達氏の跡取りである政宗の教育係になる。
義姉が政宗の乳母という縁及び彼自身の才覚が評価されてのことだった。
この時期の景綱と政宗には有名なエピソードがある。

政宗は天然痘の後遺症で飛び出た右目を嫌い、そうして醜くなった自らの容貌にコンプレックスを感じて「この目を潰せ」と近くの者達に命じた。これに唯一応え、短刀をもって目を潰したのが景綱であったという。
景綱は容貌とそこからくる内気な性格のせいで低く評価されがちだった政宗の才覚を高く評価していたというから、彼が痛みに耐えて成長することを確信し、この暴挙を行ったのだろう。

実際、景綱の読みは正しかった。コンプレックスを克服した政宗は若くして伊達氏の家督を継承すると瞬くうちに勢力を拡大し、ライバルを打ち倒して奥州の覇者になる。
その後は豊臣秀吉や徳川家康といった中央政権とうまく関係を取り、伊達氏を仙台藩として江戸時代につなぐことに成功したのだ。
そして、その背景には景綱のサポートがあったとされる。

最も有名なのは小田原征伐に際しての一件であろう。
秀吉が北条氏の小田原城を攻めた際、政宗のところにも出陣命令が来た。
これを断ることは秀吉との敵対を意味したが、しかし出陣すれば秀吉に従うことになる。
この際、景綱は強烈な勢いを持った秀吉のことを「夏の蝿」に例え、幾度かは潰せてもついにはしのぎきれなくなる、と進言した。
政宗もこれを受け入れ、秀吉に付き従ったため、伊達氏は滅亡を免れたのであった。

もともと師弟関係であった景綱と政宗の結びつきは強く、この時以外にも度々助言する機会はあっただろう。
景綱の助言が「独眼龍」の飛躍を大いに助ける力となったのだ。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2013年8月1日)
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