今日は二条城内にある展示収蔵館へ行ってきました。
現在は第1期「梅と牡丹の障壁画~廊下を彩る花たち~」として黒書院東廊下、通称「牡丹の間」にある原画が公開されているのですが、展示されている障壁画について学芸員が解説してくれるギャラリートークが開催されたのです。
(解説してくださったのは中野学芸員)
とてもおもしろい内容だったので、メモできた範囲でみなさんにシェアしますね。
まず今回、展示収蔵館で公開されている「牡丹図」と「梅図」ですが、じっさいの位置は以下の場所になります。
「牡丹図」は「牡丹の間」の北側と西側(四の間との境)にあり、現在も模写がはめこまれています。「梅図」は東側(台所や中庭のある面)にありましたが、現在は一般的な障子になっていて模写はありません。
「牡丹図」は新旧異なる様式で描かれている?
二の丸御殿内の障壁画は1626年(寛永3年)の寛永行幸にあわせて狩野探幽らが新規に描いたものとされています。
一般的にこうした障壁画はひとつの様式で描かれるものですが、この「牡丹図」については北側と西側で様式が異なっています。北側の二面は水辺と地面が描いてあり、牡丹の根もとが確認できます。さらに金雲が描かれており、モチーフが重なり合って奥行きのある空間が表現されています。こうした様式は狩野永徳が中心となった桃山期の狩野派の様式です。
一方、西側は地面を描かず、ふすまの下辺からいきなり枝や幹が描かれています。これは狩野探幽が描いたとされる大広間の「松図」などに代表されるように寛永期の狩野派の様式です。
このように立体的・重層的な旧様式と、平面的な新様式が見て取れることに加えて、北側の障壁画は金箔のサイズが小さいことからも時代が古いことを示唆しています。
ただし、なぜこのように様式が異なる障壁画が同じ部屋に存在しているかはわからないそうです。
また作者についても現時点では定かではありません。黒書院は探幽の弟の狩野尚信が中心となって描いていますが、尚信は一の間や二の間といった主要部を担当しているので「牡丹の間」は別の人が書いている可能性が高いです。
仮説としては、この旧様式の「牡丹図」二面は徳川家康が最初に創建した二条城御殿のものかもしれないという話をされていました。家康が築城した際は永徳の嫡男である狩野光信が中心になって障壁画を描いたはずなので様式的には符合しそうですね。
なお「おじいちゃん子だった家光が家康の思い出として残した」というのはありがちなストーリーですが、寛永行幸の準備は(後水尾天皇に娘を嫁がせたこと含め)大御所・秀忠が中心だったので、ちょっとご都合主義な妄想っぽい気もします。
じつはこの旧様式も新作で、あえて新旧異なる様式で描いたことに意味があるのか、今後なにかわかればいいんですけどね。
この「牡丹図」は現在も二の丸御殿内の当時の位置に複製画がはめこまれているので、見学した際にチェックしてみてください。ただし西側は四の間が開放されている場合は見れません。北側はガラスで保護されていますが、いつでも見れます。
「梅図」はもともと納戸に描かれていた
もうひとつの「梅図」は明治時代に移されており、もともとは別の場所にありました。
「梅図」はモチーフによって「紅梅図」と「白梅図」にわけられますが、「紅梅図」は大広間の納戸に、「白梅図」は遠侍の納戸にあったことが指図や引手金具などの痕跡から判明しています。
(その前はさらに別の場所にあった可能性もゼロではないとのこと)
「牡丹の間」に移されたのは1886年(明治19年)ということなので、1884年(明治17年)7月に「二条離宮」となったあとのことですね。
この2種類の「梅図」にも新旧異なる様式が見て取れますが、やはり理由は不明です。
なお作者については狩野探幽の師匠である狩野興以とされます。ただ中野学芸員は「白梅図」のほうは遠侍を担当した甚之丞の可能性もあるとおっしゃってました。
鳥の下書きが見えた?
修復の過程で「紅梅図」に鷹のような鳥の絵の下書き(墨線)が発見されました。
金箔から透けていて、今日じっさいに展示収蔵館でガラス越しに見ましたが、肉眼でも確認できました。ちょうどこの絵があった大広間の納戸の真裏にあるのが「四の間」の有名な「松鷹図」です。
ちょうどこの絵と同じように向かって右に顔を向けている鷹のような下書きでした。
不採用だったのか、失敗作だったのか理由はわかりませんが、紙が貴重な時代だったため上から金箔を貼って再利用したそうです。
この時代の幕府がそんなケチくさいことをするのかとも思いましたが、コストの問題よりも納期(スピード)の都合で捨てずに使ったのかもしれませんね。
ちなみに「松鷹図」は探幽または狩野山楽の作といわれているので、「紅梅図」は興以ではなく山楽の可能性もあるのかも。
「牡丹の間」は部屋なのか廊下なのか
二の丸御殿はぜんぶで33部屋あるといわれていますが、最初の平面図で色が塗られた部屋を数えてみると31部屋しかないと思います。
これに「蘇鉄の間」と「牡丹の間」を加えると33部屋になるわけです。つまり部屋とみなされているということがわかりますが、寛永行幸の際にもこの「牡丹の間」は公家衆が食事をするために使われています。
さらに二の丸御殿を見学した方ならわかると思いますが、ほかの廊下では廊下側の面(室外面)は戸襖になっていてそこに障壁画はありません。三つ葉葵の引手金具が印象的ですね。
しかしここで紹介したように黒書院だけは「四の間」と「三の間」の廊下側に「牡丹図」が描かれています。
ちなみに「牡丹図」は長押の下ですが、長押の上には藤の絵が描かれています。
黒書院は各部屋で季節を表現していますが、この東廊下(牡丹の間)では牡丹と藤を描くことで晩春から初夏を表現しており、やはり通路でありながらも部屋に準じた扱いだったと思われます。
梅雨時の攻城は美術鑑賞中心で
今回の展示「梅と牡丹の障壁画~ 廊下を彩る花たち ~」は6月16日(日)までです。
とくに今回展示されている「梅図」については初公開であることに加えて、模写が二の丸御殿にないのでこの期間中に本物を見るしかありません。
梅雨時は山城などのアウトドア系は危険でもありますし、屋内中心の二条城に来て展示収蔵館も見学してみてはいかがでしょうか。
せっかくなので期間中に二条城ガイドツアーを開催してもいいかなと思っています。