三河国の長篠といえば、織田氏と武田氏がぶつかった「長篠の戦い」を連想する人は多いだろう。有名なこの戦いの前に、前哨戦となる籠城戦が行われていたことはあまり知られていない。その舞台となったのが長篠城だ。
長篠城(愛知県新城市長篠)は1508年(永正5年)に菅沼元成によって築城された。元成は山家三方衆のひとりに数えられ、奥三河(三河国北東部の山間部)の山岳地帯の豪族のリーダー的な存在だった。城は代々菅沼氏が継いだが、群雄割拠の世界ではそれも長くは続かない。城は所有者を変え、戦いが起きる頃には徳川家康の支配下にあった。
家康の領地と隣接する甲斐の武田氏は大きな変換期を迎えていた。武田信玄が亡くなり、跡を継いだ息子・勝頼は領地拡大を狙って西へと勢力を広げていった。1574年(天正2年)に西美濃の明知城(岐阜県恵那市明智町)、遠江の高天神城(静岡県大東町上土方嶺向)を落とした。
次に目をつけたのが長篠城である。当時の長篠城には奥平貞昌が入っていた。貞昌は作手城主(愛知県新城市作手)だった奥平貞能の息子で、父親ともども徳川家康の家臣となっていた。奥平親子は武田氏との因縁があり、2年前まで武田氏の家臣であった。信玄が亡くなると、作手城を捨てて家康に臣従している。その際、武田氏の人質となっていた貞昌の弟と許嫁が磔にされて殺された。
勝頼は1万5千の兵で長篠城を取り囲んだ。それに対抗する奥平側はわずか500人。武田氏を裏切っている以上、降伏したところで許されるわけはない。意地もあったのだろうか、奥平親子は長篠城に籠って、駆けつけてくれる応援を待ち続けた。
武田軍に対抗するため、家康は兵を動かす。しかし、5、6千ほどの兵しかおらず、同盟を結んでいた岐阜の織田信長に援軍を要請した。信長は3万という兵を動員し、さらに出兵しない諸将から鉄砲をかき集めた。こうして3万5千という大部隊で長篠城の救援が行われることになった。
両陣営は連子川を挟んで、500メートルの距離で睨み合っていた。動きを見せたのは織田陣営である。長篠城の付城である鳶ノ巣山砦を少人数で奇襲させた。南方の山を迂回して、奇襲は成功。後ろをとられた武田軍は正面突破すべく、連合軍に攻撃をしかけてきた。
連合軍は武田の騎馬隊を警戒し、予め柵と土塁を用意し、武田軍が近づくまで待っていた。近づいたところで、鉄砲を一斉に打ち、武田軍を崩していった。この時に発射までに時間がかかる火縄銃の弱点をなくすため、「三段撃ち」という手法が使われたという伝説がある。第一列の兵が射撃している間に、第二列、第三列が弾を込め準備をし、第一列が下がると、準備を整えた第二列が射撃をおこなうというものだ。ただ、これは実際にはなく、後世につくられたという話がある。
勝因は奇策によるものではなく、織田軍の圧倒的な物量によるところが大きい。柵や土塁によって武田軍は攻めあぐね、相手の攻撃の手段がなくなったときに織田軍が一気に攻撃している。兵数だけではなく、弓や馬、鉄砲、槍など、総合的な物量がものをいったのである。数こそ力という概念が、以降の戦いでものをいうようになってくる。それはその後の信長の戦いにも見ることができる。
背後に憂いがなくなった信長はその後、近畿、北陸、中国へと勢力を伸ばし、天下人への道を歩んでいる。一方、戦いに敗れた勝頼はその後敗戦が続いた。ついに1582年(天正10年)3月、信長の攻撃によって自刃に追い込まれ、甲斐武田氏は滅んでいる。
また、この戦いで奮戦した奥平貞昌は信長から一字をもらって「信昌」と名乗った。