稲葉山城は美濃国(岐阜県)にある金華山山頂の山城(山の地形を利用して建てられた城)で、眼下には長良川が流れている。城が築かれたのは鎌倉時代の1201年(建仁元年)のこと。二階堂守行という人物によって築城されたと伝わっている。かつてこの城を舞台にして、斎藤家家臣の竹中半兵衛が少人数で、君主の城を乗っ取る事件が起きた。
当時の城主は斎藤竜興。彼は美濃一国を手にした斎藤道三の孫にあたる。道三は元々油の行商をしていたが、戦国の世で身を立てようと美濃へとやってきて、伝手を頼って守護だった土岐氏の家臣になった......という伝説が有名だ(じっさいにはこれは道三の父のこととされる)。その後、道三は稲葉山城に入っていた長井氏を殺して城を奪取。1538年(天文7年)に美濃守護代となり、1542年(天文11年)には土岐氏を追いだして美濃一国を手中に収めている。
そんな道三は死の時も波乱万丈だ。彼は息子である義竜に背かれ、亡くなっている。1561年(永禄4年)に義竜が亡くなると、その息子・竜興が後を継いで稲葉山城主となった。当時、竜興には大きな脅威があった。尾張の戦国大名・織田信長が美濃への侵攻を画策していたのである。
危機の最中、1564年(永禄7年)2月に事件が起きる。きっかけは竜興の家臣の竹中半兵衛が正月参賀に稲葉山城を訪れた時のことであった。竜興の家臣・斎藤飛騨守の家臣が城壁から半兵衛に小便をかけるという愚行を行ったのである。竜興や斎藤飛騨守が半兵衛を侮る態度が家臣にまで伝わったためだ。
半兵衛はこの侮辱を晴らすため、そして自身と家臣団が緩んでいるのを竜興に伝えるために城の乗っ取りを画策する。舅の安藤伊賀守守就に相談、はじめはやめたほうが良いと助言していた守就も、娘婿に懇願されてやがて賛同へ傾くことになった。半兵衛の家臣も従い、総計16名(17名という説も)で城の乗っ取りが決行されている。
当時人質として城にいた半兵衛の弟・重矩の見舞いという名目で城を訪れ、計画を実行。それに先だって、半兵衛は見舞いの品と偽り、刀や槍をこっそりと城の中に入れておいた。半兵衛は単身で斎藤飛騨守を斬り倒している。斎藤飛騨守の近侍は、半兵衛と一緒に来た家臣に斬られた。その動きに気がついた竜興は立ち向かおうとしたが、家臣に説得され城を脱出している。こうして半兵衛は稲葉山城乗っ取りに成功した。城の攻略は半兵衛なくしてはなしえなかったことであるが、城兵たちがたるんでいたことも原因である。
その後、8月ごろに城は竜興に還された。城がわずかな兵で簒奪されたことは信長にも知られ、1567年(永禄10年)には落城させられている。信長がこの城に移り住むと、この地域は中国の故事と孔子の故郷からとって「岐阜」と命名された。心機一転、信長の天下統一への意気込みを感じさせる。その後、半兵衛は主を信長へと変え、持ち前の頭脳を生かして織田家臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)付きの将として活躍している。