「関ヶ原の戦い」といえば、関ヶ原で石田三成ら西軍と徳川家康ら東軍がぶつかった戦いのこと、と思っている人は多いだろう。もちろんその本戦は日本史のターニングポイントで重要なのだが、美濃関ヶ原での決戦の裏では、各地で西軍と東軍がぶつかっていたのだ。今回紹介する伊勢の安濃津城(三重県津市丸之内本丸)での戦いもそうした関ヶ原の戦い・地方編の一コマだった。
まずは大きな流れを紹介しよう。三成と家康の戦いは、独自の勢力拡大を図る家康を三成が止めようとしたために起きたものとされている。そもそもの原因は、天下を手中にした豊臣秀吉の死にある。彼は死の間際、幼い息子・秀頼を支えるため、秀頼が大きくなるまで有力者たちに政権を任せることにした。そのひとりが家康であり、すぐに彼による豊臣政権乗っ取りと疑われても仕方がないような動きが始まる。禁止されていた大名家同士の婚姻を行ったり、大名に上洛を命じるということもあった。
三成は家康の専横を止めるために各地の有力者に助力を求め、それを察した家康も水面下で各地の大名に味方になるように根回しを進めた。結果、両者が兵を挙げた際は、関ヶ原での本戦に合わせて、各地で戦いが起きたということなのだ。
その中のひとつ、安濃津城での戦いは、城主の夫人が戦ったという伝説でよく知られている。
関ヶ原での戦いが起きる前、家康は上杉景勝に上洛を要求し、拒否されている。家康はこのことを口実に上杉氏征伐のために兵を出した。安濃津城主・富田信高もそれに加わり、上杉氏征伐のために兵を出した。
ところが、宇都宮にいた信高は挙兵した西軍が安濃津城を取り囲んだという一報を受け取る。それを知った信高は西軍の包囲網を突破して居城へと引き返している。
取り囲む西軍は3万あまり、対する安濃津城側はわずか1700だけ。戦う前から結果は見えているような状況だったのだ。
信高が討ち死にを覚悟した時、ひとりの美しい若武者が目の前に現れた。若武者は片鎌の槍を持って敵兵を倒す活躍を見せたが、信高には見覚えがない。家中の者に聞いても誰ひとり若武者を知っている者はいなかったという。
信高が若武者に正体を尋ねると、若武者は兜をとった。すると、鎧の袖にまでかかる長い黒髪がこぼれ、そのときになって若武者の正体が自身の妻であることがわかったそうである。その後も若武者に扮した信高夫人は戦場に立ち、6、7人の敵兵を倒したという武勇が伝わっている。夫人がどんな気持ちで戦場に立ったのかはわからないが、家族の絆を感じさせられるふるまいだと言えるかもしれない。
夫人の活躍はあっても、兵数の差を埋めることはできなかった。信高は西軍の降伏勧告を受け入れ、剃髪して仏門に入った。
幸いなことに信高の属する東軍が勝利したため、戦後に2万石を加増されている。1608年(慶長13年)には伊予宇和島に12万石で転封しているが、罪を犯した親族を匿った罪で、1613年(慶長18)に改易となってしまった。その後夫人がどんな人生を歩んだかはわからない。親族の絆が強いゆえの不幸であった。