三方ヶ原の戦いで敗れた家康はどうにか浜松城へ戻った。
大敗した後だから武田軍が追撃してきそうなものだが、実際にはそうはならなかった。その説明として、よく語られるのが「家康が空城計(空城の計)を仕掛けた」という話だ。
曰く、家康は浜松城に入るや、松明を焚かせ、門を開かせ、城内を静かにさせた。
いかにも罠がありそうな風情を演出したのである。これを見た武田軍は「ここに攻め込んでは危うい」と攻撃を控え、浜松城は責められずに済んだ……という。
この作戦を古代中国の軍学書『兵法三十六計』に第三十二計として記されている「空城計」(あえて敵に警戒させる作戦)になぞらえて、「家康は空城の計を仕掛けた」と言われるようになった、というわけだ。
なお空城の計の有名な例としては、『三国志演義』の一場面がある。
いわゆる北伐において、諸葛孔明は弟子の馬謖を信じて要所を任せたために窮地へ陥り、どうにか味方を撤退させなければならなくなった。そこで城の門をすべて開け放たせ、自らは櫓の上で琴を鳴らすパフォーマンスに出る。この状況を危ぶんだ敵将・司馬懿は策略と見て一度撤退し、のちに「空城計に引っかかったのだ」と再び攻めると、もう援軍が到着して今度こそ本当に罠があった……という。
しかし実際に家康が空城の計を仕掛けたかというと、どうも怪しいようだ。
空城の計を連想させる描写は『改正三河後風土記』『四戦紀聞』と言った史料にあるのだが信ぴょう性が薄く、「武徳大成記」などの史料によると家康は城の外へ向けて鉄砲を撃たせることで追撃を防ぎ、また信玄の偽首を仕立てて「信玄を討ち取ったぞ」と嘘をつくことで城内の人心を安定させた――というのが実際の家康の策であったらしい。