「竹千代」と呼ばれた幼き家康が、苦難の日々を過ごしていたことはよく知られている。
彼が生まれた松平氏は、祖父・清康(きよやす)の頃には勢力を大いに拡大したものの、清康が暗殺されたせいで衰退し、家康誕生当時は東の今川・西の織田の両勢力によって激しく圧迫されている状況だったからだ。
当時、家康の父・松平広忠(まつだいら ひろただ)は基本的に今川寄りの姿勢をとっていたようだ。
しかし、織田に味方する勢力が増える中で広忠はこれまで以上の援助を今川氏に求めざるを得ず、その代償として嫡男の家康(当時はまだ竹千代)を今川の本拠地・駿府へ送らざるを得なくなった。
駿府へ向かう家康の一行は、途中で田原城の戸田康光(とだ やすみつ)のもとを訪れる。
康光は広忠の後妻の父であり、広い意味では身内に入る。その康光が密かに今川・松平を裏切り、五百貫とも一千貫ともいう銭と引き換えに家康を織田方へ売り渡した、という。
哀れ家康は東ではなく西へ送られ、尾張で二年を過ごすことになったのである。なお、この時にのちの同盟者である織田信長と出会う……というのがエンターテインメントでは定番だ。
さて、以上の通説はどこまで信じていいのであろうか。
家康と信長がじつは会っていた、という話は信憑性のある史料では見出すことができない。それどころか、戸田康光の裏切り・誘拐さえも、資料による根拠がないとされているのだ。
近年発見された資料によると、家康が人質として送られた1547年(天文16年)に、松平広忠が尾張の織田信秀(おだ のぶひで)に打ち破られて岡崎城が落ち、広忠は降伏してどうにか許された、というのである。
通説ではこの頃の広忠は今川と結びついて織田と戦っていたはずだが、新史料によればもう敗れていたことになる。だから、家康が尾張へ行ったのは誘拐ではなく正式な人質、ということになるわけだ。
さらに「じつはこの時点の広忠(松平)は織田だけではなく今川も敵にしてしまっており、両者の連携により挟み撃ち状態だった」という説も存在する。背景には、今川寄りの人物である松平信孝(まつだいら のぶたか)と広忠の対立があったともされる。
織田・今川のどちらとしても本音として三河が欲しいため、ある程度松平の力を削ることについては同意が成立したのだろうか。
とはいえ、織田・今川が対立していたのは間違いない。
二年後に織田方が占領していた三河の安城城が今川方によって落城すると、この時に捕虜にされた織田信広(おだ のぶひろ=信秀の長男、信長の異母兄)と家康の交換が成立し、今度は家康は今川へ送り込まれることとなるのであった。