家康が幕府を開いた江戸は、くしくも豊臣秀吉に命じられて移封した先。世界有数の一大都市となる基礎を築いた家康ですが、その道のりは平たんではなかったはずです。天下普請によって築かれた江戸城と家康時代の天守を最新研究結果から探ってみます。
江戸城を大城郭へ
江戸城は太田道灌が築いた城と言われています。家康は、1590年(天正18年)の小田原征伐後に秀吉より東海五カ国から関八州への転封を命じられたため、それに従って江戸に入城しました。家康がまず手掛けたのは家臣団の配置です。江戸につながる主要な街道の入口には重臣を配置しました。つまり、上野国の高崎には井伊直政、上野国の館林には榊原康政、相模国小田原には大久保忠世などです。
家康が入った江戸城はどうだったかというと、本丸及び空堀で仕切られた二つの曲輪があった程度で、城の改修は必要最低限に留めたと言われています。大きく築城を行うのは1603年(慶長8年)の将軍宣下を受けてからになります。つまり、将軍になった後にその城としてふさわしい形に大きく作り替えていったのです。
国家プロジェクトでの築城
最初の工事は、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、前島を堀割して道三堀や平川へと接続させる工事で70家の大名に手伝い普請を命じています。諸大名は石高に応じて1000石に一人の割合で人夫を出すこととなりました。つまり、公儀普請(天下普請)です。ちなみに公儀普請は、江戸開府直後の慶長期(1603年~1615年)、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後の元和期(1615年~1624年)、そして3代将軍家光の寛永期(1624年~1644年)の3期にわたって行われ、完成は1660年(万治3年)です。
もともと「江戸」という地名は「江(入江)の門戸(入口)」に由来するといわれ、江戸湾沿いの一帯は満潮になれば海水に覆われ、潮が引くと湿地帯が広がる土地でしたが、これを神田山を切り崩して埋め立てることによって土地を確保したのです。
翌年の1604年(慶長9年)からは諸大名に工事を分担させる公儀普請が本格化し、加藤清正、福島正則らの西国外様大名28家に石垣に用いる石材調達を命じます。石材は伊豆半島や相模湾沿岸の地域から運び込まれました。このような分担による工事は名古屋城築城にも引き継がれる国家プロジェクトで、公儀普請のシステムとなったのです。
本丸の工事は1606年(慶長11年)から開始され、1611年(慶長16年)には西の丸の石垣工事が実施されました。縄張りは築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見城の再建などを担当してきました。
当初は西国大名が主に工事を行っていましたが、このころから関東、奥羽、信越方面の大名、つまり伊達政宗、蒲生秀行らも加わって急ピッチで工事がすすめられることになります。本丸御殿が完成して2代将軍・秀忠が移り住み、天守を含めた本丸主要部が完成して将軍の城としての体裁が整いました。
あわせて、西の丸龍ノ口から外桜田門、貝塚堀、半蔵門などの南西側の整備がされました。1614年(慶長19年)には本丸、西の丸、二の丸、虎ノ門までの外郭の石垣が修築されました。その外郭には神田から日本橋、京橋、新橋といった市街地ができ、江戸下町の中心として発展していくことになります。「慶長十三年江戸図」(都立中央図書館特別聞個室所蔵)に当時の城の姿を見ることができ、ここまでが家康が行った工事と考えられます。
家康時代の江戸城天守と本丸の構造
家康創建の江戸城天守についての直接的な史料は残念ながらほとんどありません。しかしながら、当時のことを描いた資料などによって研究がすすめられており、復元想像図も多数出されています。
天守台の石垣工事は黒田長政が担当し、石材は伊豆半島から運ばれました。天守台は20間四方×高さ10間で、その上に五重の層塔型天守が建てられました。
2017年(平成29年)2月、松江市は徳川家康が築いた当初の江戸城図「江戸始図(えどはじめず)」が見つかったと発表しました。ここに描かれた江戸城は1607年(慶長12年)から1609年(慶長14年)のころの様子だと思われ、これにより当時の天守や本丸の構造が明らかとなりました。
特徴は3つあります。一つは天守が連立式天守であったこと。二つめは本丸南側には連続外枡形を有していたこと。三つめは北側には三重の馬出が構えられていたことです。
「江戸始図」では建物は書かれていませんが、石垣については黒く塗りつぶす形で描かれており、門の通路なども的確に描いています。そのラインをたどっていくと、大天守と小天守が多門櫓で連結した連立式天守であることがわかります。これは現存の姫路城天守と同じ構造です。また、「慶長見聞集」によると天守は雪の嶺のように白かったと書かれていることから、白漆喰総塗籠の白亜の天守であると考えられます。
つぎに、本丸南の城門は城壁を外側に張り出して互い違いにした出入り口である「外枡形」が連続している、いわゆる「連続外枡形」の形式となっています。外枡形は信長の安土城黒鉄門や、秀吉の豊臣大坂城本丸桜門などに使われた形式で、これを連続させて用いて防御機能を高めていることがわかります。
最後は馬出です。馬出は城門の前の堀の対岸に橋でつないだ一定の区画のことを言い、甲斐の武田氏や関東の北条氏などが用いた出入り口の形態です。主に東日本で発達しました。江戸城の本丸北側ではこの馬出を三つも連続させて防御している様子がわかります。
このように、「江戸始図」の発見によって本丸と天守の構造が明らかとなり、家康の築城術を目の当たりにすることができるようになりました。
江戸城の基本情報
築城者 | 徳川家康 |
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築城年代 | 1603年(慶長8年)~ |
別名 | 千代田城 |
分類 | 輪郭式平城または平山城 |
家康にまつわる出来事 | 太田道灌が築いた城を、1590年(天正18年)に江戸に入った家康が改修。天下普請で築城がすすめられ、慶長期、元和期、寛永期と続いた。 |
歴代城主 | 家康→秀忠→家光→家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→慶喜 |
まとめ
家康は将軍宣下ののちに公儀普請(天下普請)によって江戸において大規模な土木工事を進め、江戸城を総石垣で信長・秀吉の城づくりである「織豊系城郭」と、武田流や北条流である東国の城づくりを融合させた城郭の、将軍の城にふさわしい形としました。
江戸城は50年以上の長きにわたって築城がすすめられた世界に誇る大城郭です。徳川家康が後世に託した城と言えます。
参考文献
- 現地案内板
- 皇居外苑パンフレット、皇居東御苑パンフレット
- 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
- 「歴史群像シリーズ 図説縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
- 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
- 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
- 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
- 松江歴史館所蔵「江戸始図」の学術的意義について (千田嘉博(奈良大学))
- 松江歴史館所蔵「江戸始図」の学術的意義の概要
- 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
- 「別冊宝島 江戸城 天下普請の謎」(2017年6月15日発行、宝島社)
- 「「江戸始図」でわかった”家康の城”の全貌 江戸城と大奥」(2018年6月10日、小学館)
- 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)