家康が生まれた岡崎城。彼の人生はここからスタートし、松平から徳川へと姓を変えたのも岡崎城です。「徳川家康」誕生となったこの城は当時の姿をとどめていませんが、どのような城だったのか、ここでどのような出来事があったのかをたどってみましょう。
岡崎城で生まれ、そして独り立ち
出生
家康が生まれたのは1542年(天文11年)12月26日、岡崎城でした。父は松平広忠(ひろただ)、母は於大の方で二人とも10代という若さでした。天文11年といえば、岡崎城に近い三河・小豆坂(愛知県岡崎市)で三河の今川・松平氏と尾張の織田氏が激突した小豆坂の戦いが起こった年です。この年に家康は岡崎城で生まれたのです。幼名は竹千代。
独立
6歳の時に松平氏の人質として今川家に送られることとなりました。しかし、移動の最中に田原城主・戸田康光が裏切り、尾張の織田家へと送られて2年間人質となります。その後、織田信広と竹千代との人質交換により駿府へ送られて今川の人質となりました。
今川家のもとで元服して松平元康となった後、今川義元軍の先陣として桶狭間の戦いに出陣します。この戦いによって義元が打ち取られて今川が敗走すると、今川の手に渡っていた岡崎城に入城しました。さらには今川より独立していきます。
その後は、今川義元を打ち取った敵であり、元康にとっても敵方となっていた織田信長と和睦して清洲同盟を結び、家康の手で三河を平定することに成功したのです。
徳川家康への改名
元康は1566年(永禄9年)に、源氏の一族である新田氏から連なる徳川復姓と従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)叙任が朝廷より許され、「徳川家康」を名乗るようになりました。家康は松平一門には徳川姓の使用を許さず、一族であっても松平は徳川家の家来としました。これは「三備(みつぞなえ)」と呼ばれる当時の家臣団編成にもあらわれており、東三河は酒井忠次、西三河は石川家成が旗頭となり、その配下に三河武士団とともに松平一族が置かれています。
岡崎城は「家康出生の城」として有名ですがそれだけではなく、岡崎城で生まれ、今川の支配から独立して徳川家康を名乗るまでの居城なのです。つまり、彼にとって大きな転機となった時期を岡崎城で過ごしていたと言えます。
家康時代の姿は見ることができず
元康時代の岡崎城の姿は、残念ながらまったくと言っていいほどわかっていません。「龍城古伝記」には元康が城の改修を行ったとの記述がありますが、どのような内容であったかもわかっていません。
今の城跡に見える石垣や堀などは、家康が関東へ移ったのちに入城した田中吉政が城を拡張したのにともなって築いたとされ、それ以後の城主によって整備がすすめられたと考えられています。したがって、元康時代の痕跡をたどることも困難な状態です。
しかし、家康は浜松城に居城を移すまでのおよそ10年の間をこの城で過ごしており、三河平定を成し遂げています。
いまとは違う土造りだった岡崎城
清海堀は元康のころにもあった
元康時代の城の様子はほとんどわかっていませんが、その中でも「清海堀」(せいかいぼり)は中世城郭の様子を示す貴重な遺構と言われています。
本丸の北側にあるこの「清海堀」は深さ約10m、幅20m程の空堀で、西郷頼嗣(よりつぐ)の入道後の号「清海」に由来します。西郷頼嗣は1452年(享徳元年)〜1455年(享徳4年)ごろにこの地に城を築き、それが岡崎城の始まりとされます。
この清海堀はいまでも良好な状態で残されており、中世の岡崎城を感じることができます。
地形から見る元康の岡崎城
とは言っても、岡崎城の地形自体が大きく変わっているわけではありません。地形から当時の様子を探ってみましょう。
岡崎城は、岡崎平野を南北に流れる矢作川(やはぎがわ)と東西に流れる乙川(菅生川ともいう)の合流点で、北東の愛宕丘陵から西へ延びる半島の南西端に位置する標高約24mの龍頭山(りゅうとうざん)に本丸が作られています。
岡崎城の西麓には伊賀川が流れており、この伊賀川とその西の矢作川が西方に対する天然の堀となり、さらに南を流れる菅生川が南方に対する天然の堀となっています。
これらの川と清海堀で囲まれた部分を城の中枢部として、その周囲の低湿地帯を巧みに利用した城が松平元康時代の城だったのではないでしょうか。
土造りの城が元康の原点
石垣を導入する前の家康の城づくりは深い堀を巡らせるのが特徴で、本能寺の変以後に武田家臣団を取り込んでからは馬出(うまだし)を巧みに利用しています。
「岡崎城絵図」(〔日本古城絵図〕 東海道之部(2). 42 三州岡崎城図(国立国会図書館デジタルコレクション))をみると本丸の西側にある白山郭に馬出がありますが、元康が馬出を使い始めたのは浜松城時代以降のため、残念ながら家康が作ったものではなさそうです。
先にも述べた通り元康在城時の城の遺構はほとんど残っていませんが、城の周りの複数の川が作り出す地形と低湿地帯を利用した中世の城であったことは間違いありません。天守や石垣がまだない時代の土造りの城が元康の原点なのです。
岡崎城の基本情報
築城者 | 西郷頼嗣 |
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築城年代 | 1452年(享徳元年)~1455年(享徳4年)ごろ |
別名 | 龍城、龍が城 |
分類 | 梯郭式平山城 |
家康にまつわる出来事 | 1542年(天文11年)に岡崎城で誕生。人質時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした |
歴代城主 | 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 |
まとめ
岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳川家康にとっては特別な存在だったともいえるでしょう。まさに徳川家康の人生がスタートしていった城です。
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも岡崎在城時代の家康について詳しく書かれるものと思われます。これを機に家康人生をスタートさせた岡崎城をくまなく散策してみてはいかがでしょうか。
参考文献
- 現地案内板
- 岡崎城パンフレット
- 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
- 「歴史群像シリーズ 図説 縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
- 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
- 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
- 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
- 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
- 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)