「家康と城」の最後は名古屋城です。名古屋城は家康の居城ではないですが、地選から家康の考えがふんだんに盛り込まれた最高到達点の城です。その姿を見ると晩年の家康の考えを覗き込める気がします。家康は何を思い、名古屋城を築城したのでしょうか。
家康が築城を命じた名古屋城
家康が江戸幕府を開府した1603年(慶長8年)、尾張国の中心は斯波氏が尾張守護だったときから長らく居城とされてきた清須城でした。関ヶ原の戦いのときに清須城主だった福島正則はこの戦いののちに安芸に移封となり、家康四男・松平忠吉が52万石で清須城に入城しました。しかし、1607年(慶長12年)に忠吉は早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際に清須城に入城したのは1609年(慶長14年)の正月のことです。
徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられています。その最終的な城の一つとして、1610年(慶長15年)に家康が名古屋城の築城を諸大名に命じました。京都防衛と西国大名の抑えとして東海道・美濃路の追分に位置する名古屋に城を築いたのです。
名古屋城築城にあたっては家康自身が地選をおこなったり、指示を細かく出すなど、家康肝いりの城ともいえます。1612年(慶長17年)に天守、1615年(慶長20年)には本丸御殿が完成しました。城主の義直はこの年に婚儀を行ったといわれていますが、その最中に大坂夏の陣が勃発するのです。
室町時代に尾張の守護所=中心だった清須城は、政治・経済・物流の中心であり、織田信長・信忠・信雄、豊臣秀次、福島正則らが城主を務めました。清須城は五条川を貫通するように築かれた河川を利用した城でしたが、それと同時に低湿地帯でもあったために洪水などの被害に悩まされていました。さらに1586年(天正14年)には天正地震によって液状化現象が起こり、地形の弱さを露呈していました。先にも述べた通り、家康は関ヶ原の戦い以降に実子を清須城に入城させますが、このような理由により城の移転を模索していたのかもしれません。
そこで白羽の矢が立ったのが名古屋の地でした。現在の名古屋城の場所は、南へと延びる舌状の名古屋台地の西北端に位置しており、北は低湿地帯です。湊町として栄えていた熱田が台地の南端にあり、交通の便も比較的良いところです。交通の要衝でもあり地盤の優れた台地上に城を築くことで安定した領国経営が行うことができるため、この地を選定したものと考えられます。これは現在の減災という考え方であり、家康の先見性がうかがい知れます。
また、名古屋の地は東海道と美濃路の追分にあたる場所でもあり、街道の抑えとして最適な場所でもありました。このような条件がそろう場所に名古屋城が築城されたのです。
家康肝いり・名古屋城の縄張り
台地の北端に中心となる本丸を置き、周囲を空堀で囲っています。本丸の南西に西の丸、北西に御深井丸(おふけまる)、北西に塩蔵構、南東に二の丸を配置しています。これらを堀(北と西は水堀、東と南は空堀)で囲って中堀としています。さらに台地が連なる東面と南面を大きく囲っているのが三の丸です。城の北側は低湿地帯であるため、敵の侵攻のリスクは低いと考えられ、南側の防御を強化する作りです。
名古屋城の縄張りの特徴はいくつかあります。そのひとつは、曲輪を方形にしてずらすように配置していることです。曲輪と曲輪の間は細い通路=鵜の首(うのくび)と呼ばれ、敵の侵入を容易にさせない工夫がされています。全部で6か所の鵜の首があります。特徴の二つ目は馬出です。馬出は武田流築城術で知られていますが、武田氏滅亡後に召し抱えた武田家臣団によりその技術が大きく利用されています。馬出は本丸南の大手と東の搦手の2か所ですが、その大きさは全国有数と言えるでしょう。特徴の三つ目は枡形門と多門櫓です。馬出から土橋を渡った先には枡形門が構えられており、本丸全体を多門櫓で囲っています。これは徳川家康の信頼の厚かった築城名人・藤堂高虎の技術です。内堀は弓矢で攻撃できる距離に幅を狭めており、多門櫓からの総攻撃によって敵を寄せ付けない構造となっています。さらに枡形門は内枡形ではあるものの少しだけ堀に出張った形の最新式枡形です。駿府城でこの技術を用いた枡形門が作られていますが、駿府城より後に築城した名古屋城にもこの最新式の枡形門を配置しています。
このように、家康は武田流築城術や高虎流築城術を余すところなく利用し、巨大城郭・名古屋城としたのです。
石垣と天守は全国屈指
名古屋城は公儀普請(天下普請)によって築かれましたが、石垣は割普請とされました。つまり、各大名が石垣工事の担当割り振りがなされ、それぞれの大名が競い合うように築いていったのです。「丁場」=工事担当箇所が描かれた「町場請取絵図」によると、毛利秀就、加藤清正、黒田長政、福島正則、生駒正俊、加藤嘉明、蜂須賀至鎮、浅野幸長ら豊臣恩顧の西国大名20家が担当しています。西国大名に担当させた意図としては諸大名の財力をそぐためとか、豊臣政権を見限らせるためなどと考えられていますが、石垣築造は主に西国で行われていたために技術力が高く、逆に徳川をはじめとする東の大名は技術力に乏しかったことも要因のひとつです。
本丸の北西隅には巨大な天守が建てられました。天守一階は15間×17間もあり、16間×18間と言われた江戸城天守に次いで第2位の巨大天守でした。一階から五階までの延べ床面積は江戸城よりも大きく史上第1位です。現存最大の姫路城天守と比べると2倍以上の大きさです。
名古屋城天守は五重五階、地下一階であり、その南側に土塀で挟まれた橋台を設けて、二重二階地下一階の小天守と結ばれています。この形式を連結式といいますが、名古屋城はその典型例です。本丸は多門櫓で囲まれていましたが、天守には接続していません。これは火災による類焼を防ぐためのもので、全国でも初といえる防火区域でした。
天守は二重目と三重目に比翼千鳥破風、二重目と四重目には軒唐破風、三重目と四重目に巨大な千鳥破風を設けるなど、最高の格式を誇る姿をしていました。最上重は本丸正面(南側)に入母屋破風を向けています。室町時代に完成した書院造の殿舎は正面に入母屋破風を向けており、安土城や大坂城の天守も最上重は正面に入母屋破風を向けていました。そのような天下人の天守の格式を名古屋城天守は継承しているのです。
名古屋城の基本情報
築城者 | 徳川家康 |
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築城年代 | 1609年(慶長14年) |
別名 | 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城 |
分類 | 梯郭式(または輪郭式)平城 |
家康にまつわる出来事 | 公儀普請(天下普請)によって徳川家康が築いた城で、築城技術の最高到達点ともいえる。 |
歴代城主 | 尾張徳川家 |
まとめ
徳川家康による築城技術の最高到達点として、また大坂包囲網の最終形態として名古屋城を築城しました。それまでの尾張の中心地・清須城から、減災や交通の利を考慮して名古屋台地に築城して移転するなど、将来を見据えた築城を見るとき、名古屋城の存在の大きさを改めて感じます。
木造復元に向けて課題の多い名古屋城ではありますが、本丸御殿の木造復元も完了し、今でも徳川家康の思いがたくさん詰まった名古屋城を再度見直す機会ではないでしょうか。
参考文献
- 現地案内板
- 名古屋城パンフレット、名古屋城本丸御殿パンフレット
- 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
- 「歴史群像シリーズ 図説縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
- 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
- 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
- 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
- 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
- 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)