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【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

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榎本秋の戦国軍師入門

戦国時代に行われた様々な戦いには、軍師が主君に進言しながらも受け入れられず、そのために敗北した合戦というものもある。その中で特に象徴的なのが、北九州の名門・大友家衰退のきっかけとなった1578年(天正6年)の「耳川の戦い」だ。

1577年(天正5年)に薩摩(現在の鹿児島県の西部)の島津家が日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)を攻撃すると、大友宗麟(おおとも そうりん)は救援のために出陣しようとする。
しかし、この時に2人の軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)と立花道雪を始めとする部下たちが強く反対する。占いによって合戦の吉凶を占う軍師である石宗は不吉を理由に、またその弟子である道雪も占いを無視することの危険さを理由に、主君を説得する。

この時に道雪は、島津を攻めることは時期尚早と見て、それも主君を制止する大きな理由となっていたようだ。それでも宗麟は結局総勢4万5千の大軍を動かして出陣してしまった。
実際に両軍が衝突したのが耳川という川の周辺だったため、この戦いは「耳川の戦い」と呼ばれている。まず大友軍は高城という城を攻めるもなかなか落ちず、そうこうするうちに島津義久(しまづ よしひさ)の軍勢が到着したために城攻めは中断し、耳川を挟んで両軍が対峙することになった。

大友軍側の強行渡河に始まった戦いはやや島津有利で展開するが、この時に宗麟率いる本隊は別の場所にいたため、それを投入すれば状況は大きく変わっただろう。ところが宗麟はその軍を動かさず、そうこうしているうちに翌日の戦いで大友軍は大きな損害を受ける。
この時、島津軍は川を渡ってくる大友軍へ散々に鉄砲を撃ちかけたのだ。これによって大友軍は潰走を始め、それが全軍に伝わって撤退となってしまった。

ここで大友軍が受けた被害は大きく、角隈石宗を始めとする多くの武将が戦死した。また、この結果を見て多くの周辺武将たちが大友を見限るようになり、また宗麟自身もやる気を失ってしまった。結果として大友は衰退し、代わって島津が一大勢力として台頭していくのである。

もしこの時宗麟が2人の軍師の言うことに耳を傾け、出陣を止めていたら一体どうなっていただろうか。状況は変わらなかったのか、それとも島津が台頭するようなことはなかったのか。非常に興味深いところだ。

kojodan.jp

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