軍師の役割は、実際の作戦計画を考えること以上に、謀略や調略によって敵方の戦力を削ることにある。
どれだけ多勢に無勢の戦いだったとしても、味方に有利な状況を作っていけば、兵数の差を逆転するのはけして不可能なことではない。
「九頭竜川大会戦」は軍師の決断が勝利を導いた代表的な戦いだったが、一方で「厳島の合戦」は事前の謀略を積み重ねることによって勝利に辿り着いた代表的な戦いといえる。
「厳島の合戦」は戦国屈指の名勝負と呼ばれ、また中国地方の勝利者を決める最も重要な戦いとなった。
この戦いには稀代の謀将・毛利元就の真骨頂が現れている。強大な敵と戦うために状況を整える、まさに天才的な軍師の役割を彼はやってのけているのだ。
まずこの合戦の前段階として、周防(現在の山口県東南部)を中心に大きな勢力を持ち、当時の中国地方を代表する戦国大名のひとつだった大内家の内紛がある。1551年(天文20年)、重臣の陶晴賢(すえ はるかた)が反乱を起こし、当主の大内義隆(おおうち よしたか)を自害に追い込んだのだ。新しい当主として大内義長(おおうち よしなが)が擁立されるが、実権は晴賢が握る。
一方の元就はこの頃まだ安芸(広島県西部)の一豪族に過ぎず、大内の勢力とは比べ物にならなかった。そこで、当初は晴賢に恭順の姿勢を示しつつも、着実に勢力を拡大させていく。
事態が動いたのは1554年(天文23年)、石見(現在の島根県西部)の武将、吉見正頼(よしみ まさより)が反乱を起こした時だ。この鎮圧のための出兵命令を元就は断り、両者の対決は決定的になる。
しかし、単純な戦力比較では圧倒的に不利であることを、元就は知っていた。
そのため彼はその戦力差を埋めるためにありとあらゆる手を打つ。まず彼が手配したのは、敵方の有力な家臣を主君自身の手で殺させることだった。晴賢の名参謀・江良房栄(えら ふさひで)が反乱を計画しているという流言を流し(実際に内通していたが、房栄があまりにも欲深かったために元就が排除しようとわざとそのことを明かした、とも)、しかも房栄の筆跡を真似させた手紙まで用意して、彼が処刑されるように仕組む。
しかし、目の前の敵の戦力を削るだけでは、動乱の続く戦国時代では安心とは言えない。この頃、元就にはもうひとつ出雲(現在の島根県東部)の尼子家という宿敵がいたから、晴賢の大内家と戦っている間に背中を攻められればお終いだ。中でも彼が警戒していたのは、尼子家の最強軍団と呼ばれた「新宮党(しんぐうとう)」という集団だった。この名前は彼らの本拠地が新宮谷というところだったことに由来する。
尼子国久(あまご くにひさ)と誠久(さねひさ)の親子が率いる新宮党は尼子軍の中心戦力だったが、同時に日頃の態度が横柄だったことから、当時の尼子当主・晴久(はるひさ)とはあまり仲が良くなかった。ここに目を付けた元就は房栄の時と同じように新宮党を陥れ、晴久の手で国久と誠久を殺させてしまう。
一応その後も新宮党は存続するが、尼子最強軍団としての新宮党は実質この時に消滅してしまう。最近の説ではこの粛清に元就は関わっていなかったともされているが、だとすれば実に幸運な偶然であったといえるだろう。
さらに元就の策略は続く。広い平野で戦えば小勢で多勢に勝つことは不可能と考えた元就は、日本三景のひとつ厳島(宮島)を選ぶ。この島は小さく、大軍を相手するのにはうってつけだったのだ。
そこで1555年(天文24年)、厳島に宮尾城という城を建設する。
この城は船を使って行き来する際の重要拠点でもあったが、この時に元就は実際以上にその重要さと守りにくさを吹聴して晴賢に伝え、さらに元就の本拠地・郡山城の留守を守る桂元澄が偽の裏切りを約束する手紙を出させる。こうした元就の策略はすべて、晴賢の大軍を厳島という戦場に誘い込むための罠だった。
また、厳島での戦いに赴くにあたってもうひとつ、元就が打っておいた手がある。因島・来島・能島の三島(すべて瀬戸内海の小島)に拠点を持つ村上水軍を味方に付け、厳島への兵力の輸送を確保させ、さらにここから逃げる晴賢軍を抑えさせたのだ。この時、能島を支配する水軍の主・村上武吉(むらかみ たけよし)に「力を貸してもらうのは1日だけでいい」と約束したのが伝説になっている。
晴賢軍2万が厳島に上陸したのは9月21日、それに対して元就軍4、5千が厳島に向かったのは30日も夜半になった暴風雨の夜だった。遅れていた援軍の村上水軍もこの直前に到着し、いよいよ二手に分かれて厳島に上陸する。
一斉攻撃が始まったのは翌10月1日の早朝だ。突然の奇襲に対応できず、また大軍を動かすのには向かない厳島という地形に晴賢軍は激しく混乱し、さらに水軍同士の闘いも毛利側の勝利だったため、逃げ場もなかった。ついに晴賢は自刃して果て、「厳島の戦い」は毛利家の勝利に終わったのだ。
この戦いの後、大内の勢力は毛利によって吸収され、元就は一躍中国地方を代表する大大名となる。また、この戦いで神域の厳島を汚してしまったことを恥じた彼は、後にこの島の保護に力を尽くすようになったともいう。
戦力に大差のある敵と戦わなくてはならない時、どうすればよいのか。この厳島の戦いこそがまさにその解答であり、毛利元就は実に天才的な「軍師的大名」であったといえる。彼が蜘蛛の糸のように張りめぐらせた策謀の数々がなければ、この結果もまたなかったのだから。