同じく関ヶ原の戦いにおいて囮の役を果たし、しかもギリギリまで落ちなかった城がある。
天正年間に築かれたといわれる近江の大津城(滋賀県大津市)は、琵琶湖の水上交通およびこれを迂回する陸上交通の要所である大津に築かれた城である。琵琶湖に面した水城で、湖水を引き込んだ堀が三重に作られ、かなり強固な防備となっていた。
最初の城主は浅野氏で、もともとの居城だった坂本城を建築材として利用したらしい。その後、江戸時代初期に解体され、さらに別の城の建築材に流用された。
関ヶ原の戦いの前哨戦で、この大津城も戦火に晒された。当時の城主は京極高次で、その妻は豊臣秀吉側室・淀殿の妹である初だ。この境遇からわかるように豊臣氏と関係が深く、それもあってこの重要拠点である大津城を任せられていたのだが、実は早くから徳川家康と通じていたらしい。
最初は西軍に従う素振りだった高次だが、家康が会津に出陣するとこれに従い、その後も東軍に味方する動きを見せた。これを知った西軍は大津城を包囲して大砲などで攻撃し、激しい攻防戦が繰り広げられた。
戦いが始まってから数日後、西軍から開城を勧めるため使者が送られてきた。
高次にはまだ抗戦する意思があったようなのだが、味方との連絡が取れないこともあり、すでに籠城は厳しくなっていた。周りからの説得を受け入れて高次は開城を決意し、数日間耐え忍んだ大津城はついに落城した。
ところが、これがなんと美濃の関ヶ原で東西両軍が激突したまさにその日の朝のことであった。大津城落城と同じ日に、関ヶ原の戦いは終わったのである。
この出来事については二つの評価とそれにまつわるエピソードがある。
ひとつは、「折角粘ったのだから戦いが終わるまで守りきればよかったのに」というものだ。この戦いを見物していた京の人々が「京極さんも不運だな」と噂し合い、家康も城を見て「城はいいが、大名がしっかりしていない」といった意味のことをつぶやいた、などと伝わる。
もうひとつは、「いいや、高次と大津城は大きな仕事を果たしたのだ」、というものである。実際、関ヶ原の戦い当日まで粘ったことで、勇将として名高い立花宗茂をはじめとする西軍の大津城包囲部隊は決戦に参加することができなかった。これはある種の囮として立派な働きである、というものだ。家康もこれを高く評価し、戦いの後に高野山へ入っていた高次をわざわざ呼び戻し、若狭を加増している。
けなした家康と褒めた家康のどちらが真実でどちらが作り話なのかはともかく、客観的に見れば高次の働きが東軍の勝利に少なからず貢献したのは間違いない。敵勢力を惹き付け、決戦を有利にするのも、城の大事な役割なのである。