このように、関ヶ原の戦いから波及する形で、大小の合戦が全国で繰り広げられた。
その中には攻城戦も多数含まれていたのだが、特にドラマチックで、関ヶ原の戦い全体にも大きな影響を与えたのが、「第二次上田城の戦い」である。そう、1585年(天正13年)の戦いにおいて徳川軍を撃退した上田城と真田氏が、再び徳川軍とぶつかることになったのである。
京で挙兵した石田三成に対し、徳川家康は軍をいくつかに分けて中央へ進めた。諸大名は東海道を先発させ、自らは江戸に寄った後にゆっくりと進軍。
そして、後継者と決めていた息子の秀忠には徳川氏の本隊ともいえる大軍を預け、中山道を西上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。
その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。
昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、秀忠はまず使者を送って東軍に付くよう求める。しかし昌幸は返答を先延ばしにし、その間に城の防備を強硬なものにして、再び使者が送られてきた時にはわざと挑発的な回答で、開戦の意思を見せる。
まだ若く、しかもこれが初陣であった秀忠はすっかり頭に血が上ってしまい、放置してもよかったはずの上田城を攻めるのに躍起になってしまった、という。そして、これこそが昌幸の策略であった。徳川の大軍を釘付けにできれば、中央での西軍の戦い(もちろん、関ヶ原の戦いのことだ)が非常に有利になるからだ。
徳川軍が城の東方に陣を敷くと、籠城戦が始まった。
真田側はあらかじめ籠城戦を想定し、鉄砲や領民を城に収容して総力戦にあたる準備を整えていた。徳川軍の部隊は上田城に突撃を仕掛けるものの次々と退けられ、統率がとれていなかったために大きな被害を出してしまう。
秀忠は一度退いて態勢を整えようとしたが、そこに家康から兵を引き揚げるよう命令が入った。美濃の方面の戦局が切羽詰っているため、すぐにそちらに向かわせようとしたのである。しかし結果的に秀忠は間に合わず、関ヶ原の戦いに参陣できなかったという大失態を犯してしまった、というわけだ。
このように、第二次上田城の戦いは西軍側の大勝利となった。わずかな兵で敵の大軍を押さえ込み、大事な決戦に参加させなかったからだ。
ところが、秀忠の部隊を欠いた上でなお、家康は関ヶ原の戦いに勝って見せた。これはさすがの昌幸にも読めなかっただろうが、だからといって彼と上田城の活躍が価値を失うわけではない。