昨日は大阪城で限定公開されている「豊臣期の石垣」を見学してきました。
ものすごい倍率だったようでSNSでは落選したという声が多数投稿されていました。じつはぼくも例にもれず落選していたのですが、一般抽選とは別に過去に寄付をした人だけの抽選枠があり、そっちで運良く当選しました。
大阪城天守のすぐそばにある「金蔵」の東側に発掘現場があり、当選した方を対象にひと組8名で10分ずつ入れ替え制で見学することができます。
上から覗き見るだけなので、見るだけなら数分もあれば十分です。ぼくといっしょに参加した方はみんなすぐ帰られたので、少しだけ独り占めすることができました。
その時間を使って、まるで独占取材のような動画が撮れたので共有しますね。
石垣の技術が急速に発展するのは関ヶ原の戦い以降、江戸時代に入ってのことなので、まだ秀吉の時代は自然石を積んだ「野面積み」と呼ばれる積み方です。
お城好きの中にはこの野面積みがいちばん好きだという方もけっこういらっしゃいますね。
いまの大阪城は本丸を囲う石垣など、びしっと整形されたブロック状の石垣が美しく積まれているので、その差がよくわかると思います。
直方体に整形されているのもそうなんですけど、石のサイズがぜんぜんちがいますね。
余談ですけど「算木積み」と呼ばれるこの隅っこ部分の交互に積まれた部分の石の巨大さには圧倒されます。
なぜ地中に石垣が残っているのか
まず大阪城の歴史について知らなければなりません。
大坂城は秀吉が築いたお城ですが、「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡した際に破壊されました。そのあと徳川家は秀吉時代の大坂城の土台部分をぜんぶ埋めてしまいます。これは埋めて隠したかったというよりは、より土台を高くすることで防御力をアップすることが目的だったと思われます。
(その背景として高い石垣を構築できるようになったというのもありますね)
どうせ埋めるので石垣をわざわざ壊す必要がなく、そのまま残っています。
もし石材不足などの理由があれば石垣を再利用することもあるのですが、このときの徳川家は「天下普請」の名目で大名たちに石を運ばせることができましたし、先のとおり秀吉時代の石はほとんど加工されてないので実際問題として使えなかったのです。
ちなみに埋めちゃったから残ってるという例は江戸時代にかぎった話じゃなく、最近だと駿府城の天守台石垣などの発掘例がありますね。
駿府城は明治時代に陸軍施設として使用されており、その際に更地にされました。当時は堀があったので、結果として地面より上の石垣だけが破壊されて、下の部分はそのままの状態で埋められました。なので掘れば出てくるというわけです。
まあこのへんのことはぼくもよくわかってなくて、駿府城の石垣発掘の記事を書いたときに教わった知識の受け売りです。
話を戻すと、徳川家があらたに大坂城を築城する際はぜんぶ壊して更地にするのではなく、秀吉時代の大坂城の地表面から6mくらい盛り土をして更地にしたため、それより下にあった石垣はほぼ無傷で埋まっています。
ただ大阪城公園は特別史跡だったりするので好き勝手に掘り返すことができず、今回のように大規模な発掘ができたのはすごいことなんです。
とりあえず撮ってきた写真をペタペタ貼っておきますね。
当日は快晴だったので、じつは肉眼で見るよりも写真のほうがはっきり見えます。
ちなみに大阪市が進めているこの『豊臣石垣公開プロジェクト』は平成25年度からはじまっています。
2014年の3月にも公開されていて、抽選とかじゃなく誰でも自由に見学できました。記録用に撮っておこうとビデオカメラを持っていってたので、動画をYouTubeにアップしています。
比較してみると、当時は一部だけが露出してただけなので、この7年の間にかなり掘り出されたことがわかりますね。
コロナ以降、こうした現地説明会のような見学会の参加人数が制限されるようになってしまったのは残念ですが、いまは写真や動画での共有がとても簡単になったので、参加できた方は積極的に現地の模様をレポートして、SNSやブログでみんなにシェアしていきましょう。
なお見学は上からだったので鉄骨に視界をさえぎられていますが、下に降りて地表面から撮影された動画が「豊臣石垣公開プロジェクト」の公式サイトにありますので、こちらもぜひ。
現地で配布された資料のPDFもダウンロードできますよ。
(余談)京阪電車のプレミアムカーに乗ってみた
まだ京都も大阪も緊急事態宣言下にあり、なるだけ人混みを避けようと思ったのですが、じつは京阪電車を使えば京都から大阪城最寄りの天満橋駅までは一本でいけます。
しかも京阪にはプレミアムカーという、プラス500円でゆったりシートに座れるグリーン車みたいなのがあって、それに乗ってみました。運賃より高い(出町柳駅→天満橋駅で480円)のですが、1時間だし密を避けるにも悪くない選択かも。