今日は京都府立京都学・歴彩館で開催された稲葉継陽先生による講演会「細川幽斎『古今伝授』と『天下統一』」に参加してきました。
コロナ対策で会場はひと席飛ばしの配置となっており、目視で数えた感じではだいたい100人くらいでした。
撮影禁止、録音禁止の講演会だった手前、おそらく配布資料もアップしちゃいけないと思うので、ざっとメモだけ共有させてもらいます。
メモというか、ぼくが理解したことのなぐり書きみたいな感じです。
(聞き間違いや勘違いもあるかもしれませんがご容赦ください)
細川幽斎「古今伝授」と「天下統一」
今日の講演会でぼくが学んだこととしては、以下の2点です。
- 古今伝授はたんに和歌の解釈がどうとかって話ではない
- 江戸幕府のルールの大半は細川藤孝(幽斎)が伝えた室町幕府のマニュアルが元になってる
時系列に沿って、もう少し詳しく書いていきます。
- 細川藤孝は足利義輝に仕え、諸大名との取次役をしていた。島津家、相良家とやり取りをした書状(将軍の手紙に付けた副状=添え状)が残っている。
- 義輝が殺害されると義昭に仕え、(1)義昭の入京を実現できる意思と実力を持った畿内周辺の大名とのパイプをつくる、(2)将軍就任に備えて幕府のしきたりなどを記した書物を集める、ことに尽力した。
ご存知のとおり、義昭の上洛をサポートしたのは織田信長で直接のやり取りは明智光秀がおこなったとされていますが、藤孝自身も美濃に足を運んでいた記録があります。
おそらく光秀は藤孝の同僚または部下として動いていたと考えられます。
- 結果として信長・義昭の連合政権は数年で瓦解(義昭の入京は1568年、追放されたのは1573年)、藤孝は信長につくことを選ぶ。このとき勝龍寺城を任されたことが大名としての細川家のスタート。
- 摂津、河内、大坂で一向一揆(百姓と武士の武力対立)と戦う中、古今伝授を受ける。
この頃の織田家はいわゆる包囲網状態にあり、四方に敵がいたので、京都西部を本拠としている藤孝は当然、大坂方面(=本願寺)との戦闘を求められます。
その激動といっていい時期に、藤孝は古今伝授を受けているのです。これは代々一家で相伝されてきた三条西家において、三条西実枝(さねき)の子・公国が幼かったから、いったん藤孝に伝授して、のちに藤孝が子孫に伝授をおこなうという約束があったそうです。じっさいこの約束は果たされています(公国は早世したが、藤孝は実枝の孫の実条に伝授した)。
そもそも古今伝授とはなにか
古今伝授とは一般的には「古今和歌集」の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもののことで、和歌の道の奥義とされます。
もちろん教養や資質がなければ伝授の対象にならないので藤孝にはそれだけの素養があったわけですが、どうもたんに和歌の解釈における「虎の巻」のようなものではないようです。
というのも、勅撰和歌集である「古今和歌集」の解釈はそのまま天皇家、朝廷にとっての権威であり秩序そのもので、それを伝授されるということが国家統合に連なるという意味を持つからです。だから多くの大名たちは伝授してもらいたがったわけです。
また宗教的な対立もありました。
鎌倉時代までは灌頂(かんじょう)伝授期といって、古今伝授は密教の儀式の一貫としておこなわれていました。後醍醐天皇などもそのひとりです。しかし藤孝の時代、吉田兼見が神道と結びつけることで古今伝授を再構築し、「日本書紀」なども伝授の対象に追加されました。
天皇家の宗教が密教から神道に変わったということなのですが(いまもそのまま)、この吉田兼見は藤孝の従兄弟でもあります。
つまり藤孝は素養や家柄(母親の清原家は学者の家系)だけでなく、縁(あるいは運)もあったということです。
「田辺城の戦い」の際、なぜわざわざ朝廷が勅使を派遣してまで藤孝を守ったのか(=古今伝授が途絶えることを防ぎたかったのか)が少しわかった気がしました。
武力や財力で戦国大名にかなわなくなっていた朝廷や公家にとって、権威だけが対抗手段だったともいえますね。
そしてリリーフ的に伝授された藤孝は先のとおり三条西実条に伝え戻したほか、八条宮智仁親王や公家の烏丸光広らに伝授をおこなっています。
古今伝授で伝えられる内容そのものよりも、国の文化の核心(あるいは秘密)を知っているごく小数のメンバーに入る、ということの価値がものすごかったんでしょうね。
たんに和歌の解釈がどうとかって話ではなかったです。
時を戻そう。
信長のもとで出世して、丹後・宮津城主となっていた藤孝に「本能寺の変」の知らせが届きます。
これもご存知のとおり、藤孝は光秀に味方せず、隠居して家督を忠興に譲っています。
- 豊臣政権での藤孝は古今伝授継承者として、千利休とともに文化的ブレーンとして活躍。九州征伐時は利休とともに島津家に添え状を出している。
かつて義輝のもとで各地の大名との取次をおこなっていた経験と実績がここで活かされます。
島津家では「いくら関白とはいえ、出自もあやしい秀吉の命令など聞けるか」という空気もあったそうですが、かつての将軍側近で文化的権威者でもある藤孝が仲介することで島津家は停戦命令に従う判断をしたということです(と上井覚兼日記に残っている)。
その後、「関ヶ原の戦い」を経て、細川家は九州・小倉藩に移りましたが、藤孝は京で晩年まで過ごしたそうです。
しかし彼の知識に目をつけたのが徳川家康でした。
1607年(慶長12年)、家康は藤孝に室町幕府故実書(幕府の公式行事や、大名の序列、大名から将軍へ進物する際の書式などなどが書かれたすごいマニュアル)の提出を求めます。
- 当時74歳の藤孝はかつて義昭の将軍就任のために準備した書物をもとに『室町家式』をまとめて提出する。さらに幕臣時代の同僚を推挙する(江戸幕府右筆や大坂町奉行になった者も)。
たしかに幕府を樹立するといっても、いち大名にすぎない家柄の徳川家が幕府のしきたり(武家故実)を知っているはずがないので、誰かに教えを請わねばなりません。
家康は金地院崇伝、南光坊天海、林羅山といったブレーンを抱え、江戸幕府の法案作成などをおこなたとされますが、藤孝から室町幕府のマニュアルを受け取っていたことは知りませんでした。家康にとってみれば古今伝授よりも価値のあるマニュアルだったでしょうね。
そして藤孝が伝えた室町幕府のしきたりは江戸幕府で踏襲され、それが江戸時代265年の礎となるわけです。
思えば足利義輝の奉公衆は義輝とともに討死したり、義昭とともに京を離れたりしたため、一定の権力を維持したまま江戸時代を迎えられたのは細川家くらいです。
細川藤孝は古今伝授で中世から近世へ文化を継承しただけでなく、武家故実という幕府のしきたりを伝えることで秩序の守護者だったという見方はすごく新鮮でした。
またこれだけの人物でも天下人になれなかったという事実を踏まえると、天下を取るというのは才能や運だけでなく、勢いみたいなものが必要なんだろうなとか考えちゃいますね。
約100分の講演でしたが、とても楽しませていただきました。
ぼくがおもしろいなと思ったことが少しでもみなさんに伝わればうれしいです。
余談
じつはこの講演会の冒頭はこんな話からはじまりました。
細川幽斎の歴史上の大きな役割を考える上で、として、
「1633年(寛永10年)に熊本藩が調べた記録では、一家に一挺、鉄砲を所持していた。刀狩りをしてても百姓は武装していたという証拠である。しかし「島原の乱」以降、幕末に至るまで、百姓が武士に反抗することはなく、また大名同士の武力闘争もおこらなかった。世界的に見ても稀有な200年にわたる長期平和が実現された(=武装権および武器行使権が抑制された)のはなぜか。」
という感じの、めちゃくちゃ興味をそそられる問題提起がなされたのですが、とくに答えが提示されないまま終わってしまったんですよね。
この答えがすごく気になります。藤孝が江戸幕府の安定化を影で支えたから、とかそういう話なのかな。
なお今年の5月に開催されるはずだった(コロナで中止になった)「新明智光秀論」は来年1月24日に再開催されるそうです。
これは楽しみですね。