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【江戸時代のお家騒動】生駒騒動 バカ殿様と家臣団の対立に幕府が絡む複雑怪奇な構図

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【時期】1637年(寛永14年)~1640年(寛永17年)
【舞台】高松藩
【藩主】生駒高俊
【主要人物】藤堂高虎、藤堂高次、生駒将監、前野助左衛門、石崎若狭

外祖父の藤堂高虎のもとで動く高松藩政

藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えた武将であり、関ヶ原の戦いでは東軍に属したために徳川家康からの信頼も厚かったことで知られている。
江戸幕府の成立後は伊勢国津藩の初代藩主となった高虎だったが、実は津藩の藩政を執り行う一方で、讃岐国高松藩主である外孫・生駒高俊の後見人も務めている。いや、後見人というよりもむしろ、高虎が主導して高松藩を動かしていたといっても過言ではなかった。

高俊が高松藩主となったのは1621年(元和7年)のことだ。
父の正俊が死去したため、わずか11歳(一説には3歳とも)で高俊が跡を継ぐことになった。しかしまだ幼い高俊がひとりで藩政を行えるわけがないので、後見人がつけられる。それが外祖父の高虎であった。

本来ならば、このような時には幕府より目付役が派遣されることになっている。ところが信頼する高虎の外孫であるということから、特別に内輪扱いにするという措置がとられた。
これにより、高松藩の藩政は江戸にいる高虎が統轄し、彼から出された指示を藩で奉行らが実施するという形が出来上がったのである

この頃、高松藩において権威を振るっていたのは老臣・生駒将監だった。
しかしそんな彼のことをよく思わない家臣の前野助左衛門や石崎若狭は、将監の失脚を密かに狙っていたのだ。前野や石崎は高虎に面会し、「将監が一人で権勢を振るっているのは、幼い主君のためにも良くない」と訴えた。

高虎も一度はこの訴えを退けたものの、1624年(寛永元年)干ばつで多くの死者が出ると、「将監の専横のせいで治政が悪いために、ここまで被害が拡大したのではないか」と考えるようになる。
そこで高虎は将監の権勢を抑えるために、先に訴えを起こした前野と石崎、そして高俊の叔父の生駒左門を新たに家老に任じたのである。これで前野と石崎は権勢を増したわけだが、お家騒動の種はこの時点ですでに蒔かれてしまったのだ。

男色にうつつを抜かす藩主の元で深刻化する内部分裂

1630年(寛永7年)、高虎が亡くなった。
高俊の後見人は高虎の子・高次がそのまま引き継いだが、すでにその前年辺りから高俊も藩政に本格的に携わるようになっていたようだ。高俊が11歳で家督を継いでいれば、この頃には20歳を超えている。たしかにそろそろひとりで藩政を取り仕切っても良い頃だ。

ところが高俊は、政治のことは前野らに任せて、自身は男色にうつつを抜かしていたのである。
この頃に高俊の奥方らが住まう奥御殿で刃傷事件が発生し、義父の土井利勝が真相を確かめに来たものの、奥御殿に全く顔を出さない高俊は何もわからず、利勝の質問に一切答えられなかったという話まである。
藩主がこのような状態であったために、今度は前野と石崎の専横が進んでいった。まもなくして、彼らが目の敵にしていた将監も亡くなってしまったために、それはより一層深刻なものとなっていったのだ。

そうなればもちろん、家臣の中には彼らのやり方を嫌う者も出てきた。
不満が募り藩を出て行ってしまった者も多く、その数は2~3年で60人にのぼったとも言われている。やがてこのような生駒家内部の対立が表面化する出来事が起きる。

1635年(寛永12年)に生駒家が江戸城の普請を命じられたのが、ことの始まりだ。
普請の依頼を命じられ、前野と石崎はその総奉行となった。ところが財政が逼迫していたために、普請を行うことができない。前野と石崎は相談し、江戸の富商から金を借りることで、金銭面の問題を解決することにした。

問題が生じたのは、その借金の返済を巡ってのことだった。前野と石崎は石清尾山の林を伐採し、それを借金の返済にあてようとした。ところがこの松林は、高松城の要害として伐採はおろか足を踏み入れることすら禁じられていたのだ。
これを知った家臣たちは憤慨し、前野と石崎を訴えるためある人物を頼ることにした。それが、将監の子である生駒帯刀だった。

帯刀は前野らの非行を19ヶ条にしたためて江戸へと向かい、土井利勝、藤堂高次、そして生駒家の縁戚にあたる脇坂安元に訴え出た。
これを受けて尋問が行われたものの、前野と石崎はうまく立ちまわったため、この時は訴えをうやむやにされてしまったのである。しかも後見人を務める藤堂家が罰しなかったということで、前野・石崎派の者たちはさらに勢いづいた。結果、内部の亀裂はさらに深まったのだった。

そのため、帯刀は再度藤堂家に訴え出ることになる。
今回は、土井家、脇坂家は裁定に加わらず、先代より生駒家の後見職を務める藤堂家に一任されることになった。

抗争する重臣たちを喧嘩両成敗にしようとするが……

このままでは生駒家の内紛が絶えず、いずれ幕府に知られて改易となるだろう――そう考えた高次は、事件に関わった者たちを召集し、喧嘩両成敗として両者に切腹を言い渡すことにした。
切腹を命じられたのは、前野や石崎、帯刀や生駒左門をはじめとする9名の家臣たちである。主家のためと言われれば、両者ともに従わざるを得ない状況となったのだった。

ところが、話はそれでは終わらなかった。
帯刀を支持する者たちが、この判決に異を唱えたのだ。彼らは、忠臣である帯刀や左門に逆臣と同じ処分を下すのはおかしいとして、このことを生駒高俊に訴えた。藩主でありながら、高俊はこの時に初めて騒動のことを知ることになったという。それほど藩政とは遠いところに置かれていたわけだ。

しかし高俊は、自分の知らないところで家臣の切腹が決まっていたことに腹を立て、高次のもとへ抗議に訪れた。
高次は事の成り行きを説明したものの、高俊は帯刀や左門らの切腹については納得せず、高次と言い合いになってしまう。その結果、高次もついに怒り出してしまい、「今後は生駒家のことには一切口を出さないから、好きにしろ」といって、高俊との話し合いを終えてしまったのだ。

藤堂家を去り江戸藩邸へと戻ってきた高俊は、帯刀派の者たちの切腹が取りやめになったことを告げ、帯刀を帰藩させた。
ところが前野・石崎らは切腹するつもりで江戸にて待機していたため、帯刀の処分が取りやめになったことを知ると、「それでは喧嘩両成敗にはならない」と憤慨。ここにいたって前野・石崎が帯刀らの専横を幕府に訴えたために、ついに騒動は幕府の知られるところとなったのだ。

訴えを受け、大老・酒井忠勝邸に関係者全員が召集された。
こうして取り調べが行われた結果、高俊の改易、前野・石崎派の者たちの切腹または死罪、帯刀の松江藩お預かりが決定したのである。

生駒騒動にまつわるいくつかの異説

こうして長きにわたった生駒騒動はようやく決着を見たのだが、やはりというべきか、この騒動についても異説がいくつか存在する。
まず、実は騒動の最中に前野が亡くなっていたという説だ。それによると、前野が亡くなったのは帯刀が藤堂家に再度の訴えを行った後のこととされる。帯刀の訴えについて協議を行っている間に前野が亡くなってしまったので、訴え自体がなかったものとされ、帯刀が国元に帰されたというものだ。

また高俊の改易についても、実はお家騒動には直接の因果関係はなく、1640年(寛永17年)に家臣団が徒党を組み、藩から離れたことを問題とする説もある。とはいえこの徒党については、帯刀の切腹が取りやめになったことを知った前野・石崎派の一党が起こした騒ぎなので、遠まわしにはお家騒動関連だったといえるかもしれない。

そして、これまでに述べた経緯では「忠臣」とされていた帯刀が、実は主君の高俊をそそのかしていたのだとするものもある。
前野・石崎が生駒家内で権力を持っていたことに不満を抱いた帯刀が、高俊を動かして2人の禄を取り上げたという。これに憤慨し、前野・石崎派の者らが徒党を組んで騒動を起こしたというものだ。

その他にも様々な逸話や問題を内包しているこの事件。政治関係や事件の背景などに踏み込めば、さらに深い事情が見えてきそうな、なかなかに奥深い事件なのである。

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