高松城
高松城

[香川県][讃岐] 香川県高松市玉藻町2-1


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.42(137位)
  • 見学時間:1時間7分(131位)
  • 攻城人数:1195(33位)

生駒騒動

生駒騒動は、江戸時代初期の1640年(寛永17年)に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動(御家騒動)のことです。

生駒騒動の経緯

1621年(元和7年)に生駒一正の子であり、親正の孫にあたる正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師(のちの高俊)が後を継ぐことになりますが、幼少であることから外祖父の藤堂高虎が後見することになります。
(正俊は高虎の娘を正室としていた)

高虎は大坂城修築工事にもかかわった西嶋八兵衛など藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせ、さらに生駒家一門の家老である生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門石崎若狭を家老に加えさせました。
ここから藩政の主導権をめぐって、家老同士に対立が生まれます。

高虎の死去と暗愚な藩主・高俊

1630年(寛永7年)に高虎が死去すると、息子の高次が藤堂家を継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになります。
前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、1633年(寛永10年)に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。
また、藩主の高俊は藩制をおろそかにして、前野と石崎に任せきりにしたこともあり、増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れます。

なお、高俊は男色を極度に愛好した人物で、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていました。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだそうです。
正室が父の土井利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたのですが、高俊の乱行は一向に収まりませんでした。

騒動の勃発

幕府に命じられた江戸城修築の手伝い普請で生じた借金返済のためとはいえ、親正が高松城を築いたときに伐採を禁じた土地である石清尾山の松林を木屋に伐採させたことから、譜代家臣の不満が爆発し、彼らは家老・生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の専横ぶりを親類へ訴えました。

1637年(寛永14年)、訴状を受け取った高次は、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、穏便に済ますように諭しましたが対立は収まらず、(生駒家の取り潰しを避けるため)最終的には喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることにしましたが、これまでの事情をまったく知らされていなかった高俊がこれを認めず高次に抗議しました。
高次の説得に高俊は納得せず、呆れた高次は後見役を放棄することにしました。

騒動の結末

1640年(寛永17年)、高俊の決定によって帯刀の切腹はなくなり、また江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎も切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えました。同時に国許に使者を送り、同志の者たち約2300人に鉄砲や刀槍で武装して国許を立退かせ、これが大騒ぎとなりました。

幕府はこの騒動を看過できず、石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)らに切腹を命じました(前野助左衛門はその直前に病死している)。
一方の帯刀に対しては主人に対して忠義を尽くしたとして出雲松江藩にお預けとなりました。

また、幕府は藩主・高俊に対しても家中不取締りであるとして領地を没収し、出羽国由利郡矢島へ配流となり、堪忍料として1万石が与えられました。
高俊の次男俊明に2000石が分知され、嫡男高清が8000石の旗本となり、以後幕末まで矢島生駒家としてつづいています。

なお、高松藩はその後天領となり、水戸徳川家の初代・徳川頼房の長男である松平頼重が常陸下館藩(5万石)から12万石で転封され、以降幕末まで松平家がおさめることになります。

   
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