月見櫓は北之丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓です。古文書の記載から、1676年(延宝4年)に上棟したと考えられます。
月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられました。
場内側から見た月見櫓です。
建物の構造は総塗籠造りの3重3階・入母屋造・本瓦葺きで、初重には切妻破風が見られ、その下部に石落としが設けられています。二重には唐破風と屋根の形を対象させています。
内部には中心の4本の柱が2階部分で継ぎ足しながら3階天井まで延びています。また、南面には続櫓と呼ばれる小規模な平櫓が付属しています。
水手御門(みずてごもん)は月見櫓の南に位置し、西面した薬医門です。
月見櫓と同時期に建築されたと考えられていますが、解体修理に伴う調査によって地下から古い礎石が発見されており、幕末頃に建替えられたと推定されます。
海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけました。
渡櫓は、水手御門の南に位置する総塗籠の平櫓です。
南側3間分は北之丸の新造前に所在した海手門の部材が再利用されており、柱が細く、内壁も波型真壁となっています。また、城外側は大壁、城内側は真壁となっており、3種類の壁構造が見られる特徴があります。
梁の継手の下面に「延寳四年卯二月十日井上氏□□」とあることから、この渡櫓も月見櫓と同時期に建築されたと考えられています。
重要文化財渡櫓【WATARIYAGURA】
内部には非常に珍しい波型壁、外部には石垣の継ぎ足し部分があり、生駒家から松平家へ引継がれた歴史を物語る。
この渡櫓は日曜日にかぎって内部を見学することができます(9時〜12時、13時〜15時)。
案内板の内容を紹介します。
重要文化財高松城北之丸月見櫓(続櫓)・水手御門・渡櫓
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定
高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏(いこまし)の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島(やしま)1万石(秋田県由利郡矢島町)に移封されました。その後、寛永19年(1642年)松平賴重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みずじろ)の一つに数えられています。
月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代賴常(よりつね)公の時代に、完成されたものです。ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに粱をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。