高松城には生駒氏4代(1587年〜1640年)、松平氏11代(1642年〜1871年)、15人の城主がいました。
初代城主の生駒親正は美濃国可児郡土田の出身で、1566年(永禄9年)、織田信長の美濃攻めに際してその臣下となり、その後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しました。
信長の死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍し、四国平定後の1587年(天正15年)に讃岐1国、17万3000石を与えられました。
真田家と同様に「関ケ原の戦い」では親子で東軍と西軍にわかれて戦い、所領を安堵されましたが、1640年(寛永17年)、4代藩主・高俊の代に「生駒騒動」と呼ばれる家臣団同士の争いが起こり、改易されます。
その後、いったんは天領となりますが、東西に分割され、東讃12万石の領主として松平頼重が高松に入部します(西讃には山崎家治が肥後富岡より入封し、丸亀藩が成立)。
頼重は水戸光圀の兄にあたり、水戸家を継いだ光圀は、のちに頼重の子である徳川綱方、徳川綱條を養子して、水戸藩の家督は綱條が継ぎました。一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、1673年(延宝元年)に家督を譲って隠居しました。
その後も何度か高松松平家と水戸家との間で養子縁組が行われています。
高松城の歴代城主
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
---|---|---|---|
1 | 1587年(天正15年) | 生駒親正 | 織田信長・豊臣秀吉に仕える。堀尾吉晴、中村一氏とともに三中老のひとりともいわれる。「関ケ原の戦い」では西軍に参加。 |
2 | 1601年(慶長6年) | 生駒一正 | 父とともに、各地を転戦する。「関ケ原の戦い」では東軍に参加したため、讃岐一国を安堵される。 |
3 | 1610年(慶長15年) | 生駒正俊 | 大坂冬の陣・夏の陣に参加。大坂城の普請にも参加。 |
4 | 1621年(元和7年) | 生駒高俊 | 「生駒騒動」により出羽矢島1万石に転封。 |
5 | 1642年(寛永19年) | 松平頼重 | 常陸下館より高松へ入部。高松城の大改修を行うなど、高松松平家200年の基礎を築く。 |
6 | 1673年(延宝元年) | 松平頼常 | 頼重の大改修を引き継ぐ。財政を建て直し、学問を奨励。 |
7 | 1704年(宝永元年) | 松平頼豊 | 在国中のほとんどを御林御殿(現栗林公園)で過ごすも、地震・大火災など災害の頻発で藩財政窮乏。 |
8 | 1735年(享保20年) | 松平頼桓 | 藩士の減禄、倹約令など財政緊縮に努めるも、若くして没。 |
9 | 1739年(元文4年) | 松平頼恭 | 精糖法の研究・塩田開発等殖産の奨励。平賀源内を登用するなど、学問好きの殿様として知られる。 |
10 | 1771年(明和8年) | 松平頼眞 | 財政の引き締めと民政の復興を行う。藩校講道館を建設。 |
11 | 1780年(安永9年) | 松平頼起 | 度重なる大干ばつ発生。領民に米を貸す等善政を施す。 |
12 | 1792年(寛政4年) | 松平頼儀 | 地場産業の振興を行うも、藩札発行でインフレを招く。 |
13 | 1821年(文政4年) | 松平頼恕 | 文化面では、町人出身の長町竹石等を庇護する。塩田開発等により財政再建を果たす。『歴朝要紀』の編纂を行う。 |
14 | 1842年(天保13年) | 松平頼胤 | 井伊大老と親しくする。攘夷防衛の要所警固や水戸藩政後見を担い、治世中の多くは江戸詰め。 |
15 | 1861年(文久元年) | 松平頼聰 | 朝敵とされるが恭順の道を選択をする。上京し後に伯爵となる。 |