高松城および玉藻公園の沿革について、年表にまとめました。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)に讃岐国17万1800石の領主となった生駒親正によって築かれた城です。
このとき「野原」の地名を「高松」と改めました。
「関ケ原の戦い」において、親正は西軍に与していますが、嫡男・一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、讃岐国はそのまま生駒氏がおさめることとなります(親正は一正に家督を譲り隠居)。
1639年(寛永16年)に起きた「生駒騒動」により、生駒氏は出羽国矢島藩1万石に転封となり、その後、1642年(寛永19年)に松平頼重が12万石で入封します。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたそうです。
以降は松平家が幕末までおさめました。
西暦(和暦) | 出来事 |
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1587年(天正15年) | 豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、国主として生駒親正が入府。生駒氏の治世は4代54年間つづく。 |
1588年(天正16年) | 築城に着手した初代天守(独立式層塔型3重3階)は数年の歳月を費やして完成。 |
1640年(寛永17年) | 「生駒騒動」といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ出羽の国(秋田県)矢島1万石に移される。 |
1642年(寛永19年) | 常陸国(茨城県)下館藩主だった松平賴重が東讃岐12万石の城主として入城する。 |
1869年(明治 2年) | 版籍奉還により廃城となり、一時政府の所管になる。 |
1670年(寛文10年) | 小倉城天守を模した唐造の天守が完成する。 |
1671年(寛文11年) | 東ノ丸・北ノ丸を新造開始。 |
1677年(延宝5年) | 艮櫓が完成する。 |
1868年(慶応4年) | 官軍に高松城開城する。 |
1884年(明治17年) | 天守が解体される。 |
1890年(明治23年) | 城跡の一部が松平家に払い下げになる。 |
1917年(大正6年) | 披雲閣(旧松平家高松別邸)が完成する。 |
1945年(昭和20年) | 松平家から財団法人松平公益会に継承される。高松空襲により桜御門が焼失。 |
1954年(昭和29年) | 高松市が譲り受ける。 |
1955年(昭和30年) | 3月2日に国の史跡に指定され、5月5日には玉藻公園として一般に開放された。 |
1966年(昭和41年) | 第11代藩主・松平頼聰の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女・千代姫が輿入れしている縁から彦根城と姉妹城縁組に。 |