高松市文化財課によって作成された高松城の公式パンフレットです。
史跡高松城跡(たかまつじょうあと)の沿革
高松城は、またの名を玉藻(たまも)城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人麿(かきのもとひとまと)が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。
この城は、天正15年(1587年)に、豊臣秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正(いこまちかまさ)が、天正16年から香東郡野原庄(のはらのしょう)(篦原)よ呼ばれていた現在地に築城に着手した平城(ひらじろ)(水城)(みずじろ)です。縄張り(設計)は、当時築城の権威であった黒田孝高(くろだよしたか)(如水)(じょすい)とも細川忠興(ただおき)ともいわれています。数年の歳月を費やして完成し、高松城と名づけました。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城といわれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられて、出羽国(でわのくに)(秋田県)矢島(やしま)1万石に移されました。このあと、寛永19年(1642年)に当時常陸国(ひたちのくに)(茨城県)下館(しもだて)藩主だった松平頼重(まつだいらよりしげ)が東讃岐12万石の城主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(みつくに)の(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の居城として栄えました。
お城は、明治3年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890年)に城跡の一部が松平家に払い下げになり、昭和20年には松平家あら公益財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79.587㎡(約2万4千坪)で、往時の城域66㎡(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮(うしとら)櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしていますが、これは第11代藩主頼聰(よりとし)の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼(いいなおすけ)の次女千代姫(ちよひめ)が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。
高松城跡の概要
天正15年(1587)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)から讃岐(さぬき)一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)は、翌16年(1588)から香東(こうとう)郡野原(のはら)郷において築城(ちくじょう)を開始しました。親正は築城に際し、地名を高松に改めました。
北は瀬戸内海(せとないかい)に面し、内堀(うちぼり)・中堀(なかぼり)・外堀(そとぼり)の3重の堀で残り3方を取り囲んだ平城(ひらじろ)(水城)(みずじろ)で、その縄張り(設計)は黒田孝高(くろだよしたか)(如水)(じょすい)・藤堂高虎(とうどうたかとら)・細川忠興(ほそかわただおき)などの諸説があります。高松城は玉藻(たまも)城とも呼ばれていますが、讃岐の国の枕詞(まくらことば)「玉藻よし」に由来すると言われています。
慶長5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)の戦いでは、親正は石田三成(いしだみつなり)に味方しますが、子の一正(かずまさ)は徳川家康(とくがわいえやす)に味方したことから、讃岐国17万1800石余は改めて一正に与えられ、慶長7年(1602)から高松城を居城としました。生駒家の治世は寛永17年(1640)まで4代54年間におよびましたが、寛永17年(1640)に生駒騒動(そうどう)と呼ばれる家臣団同士による対立が生じ、領知を没収され、出羽国矢島1万石に移されました。 その後、寛永19年(1642)に松平頼重(まつだいらよりしげ)に東讃(とうさん)12万石が与えられました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)(みとこうもん)の兄にあたり、西国大名の監察(かんさつ)役を命じられたとも言われています。また光圀は兄を差し置いて水戸徳川家を継いだことを悔いて、頼重の子綱条(つなえだ)を水戸徳川家に迎え、実子よ頼常(よりつね)を頼重の養子としました。これ以後、幕末まで高松松平家は水戸徳川家と養子縁組を繰り返していきました。
頼重は入部3年目の寛永21年(1644)に高松城の改修をはじめ、寛文10年(1670)に天守(てんしゅ)を改築し、翌年から東の丸、北の丸を新造しました。それを引き継いだ2代藩主頼常(はんしゅよりつね)は月見櫓(つきみやぐら)や艮(うしとら)櫓などを建てました。これらの改修に伴い大手(おおて)を南側から東側に移動し、三の丸に御殿(ごてん)を建てました。その後、城は大きな改変は行われず、11代にわたって松平氏の居城となっていましたが、慶応4年(1868)に官軍に開城することになりました。
明治時代には城の中心部は陸軍の所有となり、天守をはじめとする多くの建物が取り壊れれるとともに、外堀や海が埋め立てられ市街化が進みました。城の中心部は明治23年(1890)に再び松平家に払い下げとなり、天守台に藩祖(はんそ)頼重を祀(まつ)る玉藻廟(たまもびょう)、三の丸に松平家の別邸として披雲閣(ひうんかく)が建築されました。昭和20年(1945)には戦災で桜御門(さくらごもん)が焼失しましたが、昭和22年(1947)に艮櫓(うしとらやぐら)など4棟が国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されました。昭和29年(1954)には城跡は高松市の所有となり、翌30年(1955)に国の史跡(しせき)に指定されるとともに、玉藻公園といて一般に公開され、市民に親しまれています。さらに、平成24年(2012)には披雲閣(旧松平家高松別邸)の3棟が国の重要文化財に、翌25年(2013)には披雲閣庭園が国の名勝(めいしょう)に指定されています。これにより、高松城跡は史跡・名勝・重要文化財の3重指定となりました。