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【江戸時代のお家騒動】小姓騒動 主家乗っ取りを企む家老の欲望と顛末

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【時期】1680年(延宝8年)
【舞台】磐城平藩
【藩主】内藤義概
【主要人物】内藤義概、松賀族之助、山井八郎右衛門

家老が息子を藩主の地位に就けようと画策

磐城平藩で起きた小姓騒動の中心となったのは、松賀族之助(まつが・やからのすけ)という家老である。
族之助は三代藩主・内藤義概(よしむね)がまだ家督を継ぐ前から小姓として彼に仕え、その後義概の寵愛と優れた政治能力を糧に出世を重ね、やがて家老として専横を極めるようになっていった。
さらに主家を乗っ取るため、族之助は義概を自宅に招いては自分の妻に接待をさせ、彼女が男子を生むと「義概の子だ」といってその子に藩主を継がせようとしたという。

ところが、次期藩主はすでに義概の嫡子・義英(よしひで)と決まっていた。
自分の子に藩主を継がせるには、義英が邪魔な存在である。そのため族之助は、なんとかして義英を排斥しようと企み、義概に義英のことを讒言した。その結果、義概が族之助の言葉を信じてしまい、義英を次期藩主の座から下ろしてしまう。

これを知って族之助の専横を止めようとしたのが、義英に仕えていた浅香十郎左衛門だった。浅香は怒って族之助を暗殺しようと企んだものの、これが失敗して捕らえられ、牢に入れられてしまう。浅香はその後、自分の行動の正当性と族之助への恨み言を連ねた遺書を残し、切腹したといわれている。

翌1680年(延宝8年)、またしても事件が起きた。小姓頭を務めていた山井八郎右衛門という男が、彼の暴言に腹を立てた5人の小姓たちによって殺害されたのである。小姓たちは山井の寝所に押し入り、山井とその妻を殺した後、領外に逃げようとしたところを捕らえられ、切腹を命じられた。
この事件には、族之助は直接関係がないように見える。しかし族之助と山井は懇意にしていたと言われており、小姓たちの行動は山井の独裁に対する不満をも込めたものだったと推測されているのだ。

藩主毒殺の嫌疑で改易に至る

自分の子を藩主に据えることを画策した族之助だったが、やがてその子が病没してしまったために目論見は失敗に終わり、藩主は義概の三男である義孝(よしたか)が継ぐことになったという。
この義孝はなかなかの明君だったと言われているが、1712年(正徳2年)に死去。その子・義稠(よししげ)が五代藩主となった。しかし義稠もわずか20歳で亡くなってしまい、今度は義英の子が家督を継ぐこととなり、内藤政樹(まさき)と名乗るようになる。

このように藩主が移り変わる中でも、族之助は権勢を握り続けていた。さらには彼の子息である正元も政治に携わるようになっていたのである。
しかし1719年(享保4年)、事件は起きた。正元が政樹にまんじゅうを献上した際、その色がおかしかったので、そのまんじゅうは犬に与えられた。するとそれを食べた犬が即死したため、正元に藩主毒殺の嫌疑がかけられたのだ。
これによって族之助・正元父子は蟄居を命じられ、その後松賀家は改易処分となった。権威に対する行き過ぎた欲望が、その身を滅ぼしたといったところだろうか。

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