今回、赤子として姿を見せた奇妙丸は織田信長の嫡男で、元服後の名前は織田信忠。父・信長が歴史に残した足跡があまりにも大きすぎるので地味になりがちだが、彼の存在と行動は歴史に大きな影響を与えた。
誕生は1557年(弘治3年)で、母は生駒家出身の女性。子供の存在が確認されず史料的に存在が薄い帰蝶と違って信長に寵愛を受けたとされる女性だが、「麒麟がくる」でも「吉乃(きつの)」という一般に知られた名前で登場している。
元服した信忠は信長に従ってあちこちの戦場へ出陣し、経験を積んでいる。特に1575年(天正3年)には「長篠の戦い」に参加し、さらにその勝利を受けて美濃岩村城を攻略する手柄を立てている。
父・信長が安土城に移るのと前後して織田家の家督を譲られ、岐阜城主をつとめて尾張と美濃を支配する立場になった。もちろん織田家の実権は引き続き父の手にあったが、やがて信長が一線を退いた後には信忠こそが織田家を引っ張っていくことになるのだと天下に知らしめたことは間違いない。
以後も各地を転戦したが、特に1582年(天正10年)の武田家攻めでは主導的役割を務めた。長年の宿敵である(かつ、一度は婚約者を迎えた関係でもある)武田家を己の手で滅ぼしたというのは信長の後継者として相応しい振る舞いであり、織田の天下は万全と思われた。
そこで起きたのが「本能寺の変」であった。この時、信忠は父と同じく京都にいて、妙覚寺を宿にしていた。明智光秀による本能寺への襲撃を知るや本能寺に駆けつけようとしたが時すでに遅く、ならばと二条城(二条御所)に篭り、徹底抗戦の構えをとった。京都のあちこちには織田家臣が分散していたので、彼らも集まって大いに戦ったがかなわず、ついに信忠は己の腹を切った、という。
その後、光秀は羽柴秀吉によって討ち倒されたが、織田家中は大混乱に陥った。信長が死んだだけであれば、すでに織田家当主である信忠が後を継げば良かったのだ。多少の揉め事はあっても、織田家のもとで天下は治ったろう。ところが、その信忠まで死んでしまった。あるいは信忠だけが死んだなら信長が改めて後継者候補を決めればよかったのだが、信長はもういない。二人まとめて死んだからこそ織田家の後継者はまとめて決められない形になったのである。その混乱に乗じで秀吉が躍進し、ついに戦国乱世は彼のもとで実質的に終わることになる……。
この信忠の顛末は、ある意味で信長の死や光秀の決断以上に謎に満ちている。
そもそも、なぜ彼は京都から脱出しなかったのか。脱出を勧めるものもいたらしいから、不可能ではなかったはずなのだ。また、光秀のほうもどうして信忠が逃れられないように万全の態勢を取らなかったのか。信長・信忠の両方を殺してはじめて織田家の態勢を崩せるのはすでに紹介した通りだ。しかし、光秀がそのような布陣をした形跡は見当たらないのである。
多くの物語では信忠の判断は彼の性格から来るものとされる。苛烈な父親を持った二代目として、己の持ち場を守るというのはいかにもありそうな決断だが、証拠は乏しい。光秀側の事情はそもそもあまり描かれない。
「麒麟がくる」ではどんな形でドラマにしてくれるのか、楽しみだ。