明智秀満と言えば、光秀について語るときには欠かせない人物のひとりである。「左馬助光春」という名前も残っている。
彼の出自については諸説ある。光秀の従兄弟だとか、職人であったとかいうが、元は三宅弥平次という名乗りをしていたようなので、従兄弟説はちょっと信用できない。明智を名乗るようになったのは、光秀の娘婿になってからだ。この娘はもともと荒木村重の子に嫁いでいたのだが、荒木家が謀反で潰されたため、光秀の元へ戻ってきたのちに秀満に再嫁した、という経緯を辿っている。
この時代、武将の娘の嫁ぎ先といえば、大方3パターンと相場がきまっている。同盟の証として他勢力に嫁ぐか、同僚との関係を強化するために同僚の家に嫁ぐか、有望な部下に嫁いで将来的な離反を防ぐか、だ。光秀の娘のケースは二つ目と三つ目のパターンに合致することになる。
このことからも、秀満は光秀第一の重臣として遇されていたのだろうと推測される。実際、明智家が丹波を治めるにあたって、要衝の福知山城を預けられているのだから、間違いない。
ただ、織田家の陪臣だった時代の秀満がどのような活躍をしたのかは後世に伝わっていない。やはり、所詮は陪臣なのである。彼の名が大きく出てくるのは「本能寺の変」の後のことだ。
主君・織田信長が宿とした本能寺を攻めるにあたって、光秀が先鋒を任せたのがこの秀満である。それだけ信頼されていたのだろう。さらに明智家が信長とその嫡子・信忠を死へ追い込んで畿内を制圧した後は、信長の本拠地であった安土城も任されている。ここから畿内全体に目配せし、全国各地に散っている織田家臣団が戻ってきたら対応するのが彼の役目であったろう。
ところが、安土城に陣取った秀満に思いもよらぬ凶報が届いた。中国地方から急遽戻ってきた羽柴秀吉の軍勢が京に迫り、これを迎え撃った光秀の本隊が惨敗してしまったのである。光秀はどうにか本拠地の坂本城に戻ろうとしたが、その途中で落ち武者狩りにあって命を失ってしまった。
こうなると、安土城になどいてもしょうがない。秀満は急ぎ坂本城に戻ることにした。このとき、秀満が城に火をかけさせたので、安土城はすっかり燃えてしまって後世に残っていない……と言われているのだが、これもまた信憑性が薄い。実際の犯人・原因がなんだったかは確定していないが、信長の息子・信雄がやらせたという話が有力であるようだ。
また、坂本城に入った際にももう一つエピソードがある。すでに城が包囲されていたので、城に面する湖を馬で渡った……というのだが、これもやはり信用できない。船で渡った、というのが実際のところであるようだ。
こうして坂本城にこもった秀満だが、周囲は包囲されたままだし、畿内に味方はおらず、もう進退極まってどうにもならない。いや、秀満自身もわかっていたのだろう。坂本城内にいた光秀の家族を殺し、自らも腹を切った。そうして明智家は滅亡したのである。