備中高松城は備中国(岡山市北区高松)にある平城である。湿地帯の中のわずかな丘陵地に建てられたため、周りは沼に囲まれていた。はっきりした築城時期は不明だが、戦国時代末期の永禄年間(1558年〜1570年)に備中東部の豪族・石川久孝が築いたと伝わる。
ここを舞台にして籠城戦がおこなわれている。近くを流れる足守川を堰き止めて、川の水を城内に流すという水攻めがおこなわれたことで有名だ。
戦いが起きたのは1582年(天正10年)、当時の城主は清水宗治である。彼は元々、備中国賀陽郡幸山にいて、築城した久孝の娘を妻にしていた。久孝の没後、他の候補者を倒して城主となっている。その後、安芸の大名・毛利氏が備中に進出すると、その支配下に入った。
だが、この地方を狙っていたのは毛利氏だけではない。尾張の織田信長も支配下に収めようともくろんでいたのである。信長は各地の攻略を配下の武将に任せており、中国地方を担当したのが羽柴秀吉だった。秀吉はここに至るまでに現在でいう兵庫から鳥取にかけて、さらに淡路などを平定しており、ついに備中に至ったわけだ。
秀吉は城攻めを命じたのだが、城の周りの沼によって人も馬も進めず、物資と時間だけが費やされていった。そのうえ、毛利氏からの援軍が駆けつけ、城の攻略は困難を極めた。
この状況を打破するため、秀吉の軍師・黒田官兵衛が妙案をもたらす。足守川を堰き止め城を水攻めにするというものだ。秀吉はその案を採用。すぐに人夫をかき集め、城の東南に堤防を築きはじめた。
工事は5月8日から始められ、同月の19日までかかった。堤防は長さ約2.8キロメートル、高さ約7メートル。ちょうど梅雨の時期とも重なっており、川の水位は増していたため、堰き止められた水は高松城の周りに流れ込んでいく。やがて水は高松城にも侵入し、城内では舟による移動がおこなわれるほどだった。
当時の毛利氏に長期戦に耐えるだけの兵糧や武器がなかったといわれており、毛利軍は堤防を壊すこともできず、傍観するしかなかった。やむをえず水練(水泳)に富んだ人間を城内に送って宗治と連絡をとらせている。一度降伏して再挙を図るように伝えたが、宗治はそれを拒否。
その間に、秀吉の要請を受けて信長の大軍が援軍に来るという知らせが入り、毛利氏は決戦か講和かを迫られた。その際、毛利氏の交渉を請け負ったのは安国寺恵瓊という僧だった。この時代、出家して無縁となっている僧が戦の交渉をすることはままあった。彼の師が毛利氏と中央の連絡、他の大名との和平交渉をしていたため、恵瓊はその代理を任され、やがて独り立ちしたという経緯がある。
秀吉は優位な立場で交渉を進められるはずだったが、信長は来ないという知らせがもたらされた。高松城へ向かう途中、京都に滞在中だった信長が家臣・明智光秀の謀反によって亡くなったというのだ。毛利氏は秀吉の申し出にあった領地割譲は認めたものの、宗治の切腹だけは拒否。そのため交渉は長引いていた。講和を早く成立させたい秀吉は、信長の死を隠して和睦を進め、領地割譲の条件は緩め、宗治の切腹を求めた。さらに信長の援軍が来る前に講和する必要性を恵瓊に説明。恵瓊が状況がひっ迫していることを宗治に伝えると、宗治は自刃を決めた。
講和を終えると、秀吉は光秀を討つべく、来た道を引き返している。毛利氏が信長の死を知ったのはその頃だった。秀吉を追撃することもできたのだが、追撃はおこなわれなかった。戦いを続けるほどの体力が陣営になかったという話もあるが、誓書の墨が乾かないうちに講和を破棄することはできないという意見も出たそうだ。
その誠実さゆえか、戦国時代に多くの大名の家名が途絶える中、毛利家は秀吉が覇権を握った後も存続し、それどころか毛利輝元が五大老として豊臣政権で重鎮の座を占めるなど大いに優遇された。その家中には宗治の子孫もいたという。