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【10大戦国大名の実力】上杉家④――謙信は神がかりか

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謙信は神がかりか

家臣相手の苦労という要素を考えてみると、謙信の有名なエピソードの数々にも「家臣統制のため」という側面が見えてくるような気がする。
朝廷や幕府に接近し、上杉の家督や関東管領の地位と名声などに固執したのも、父・為景が中央の権威によって国人たちを統率しようとしたのと同じだったのではないか。

それから、謙信はまだ27歳と若いころに高野山で出家して隠退しようとし、家臣団らの説得で取り消したことがある。
この原因を元々の信心深さや心労、理想と現実のギャップと見ることもできる。しかし、その一方で謙信は復帰の条件として国人たちに誓紙と人質を出させており、これによって度重なる遠征により分裂しかけていた越後国内を取りまとめることに成功した、という事実もある。

また、既に述べたように謙信が毘沙門天を信仰していたことは有名だが、それを覆すようなエピソードもある。
ある時、急いで出陣しなければならなくなった。この際、謙信はいつもやっている毘沙門天の堂での儀式を省き「自分に向かって祈りを唱えよ」と命じた。これに家臣が反対すると「私がいるからこそ毘沙門天は信仰されているのだ、私を毘沙門天と思え」などといったという。信心深い人物とはあまり思えない行動だ。

こうしたエピソードから、単純な「神がかり」ではない、したたかな戦国大名としての上杉謙信の素顔が見えてくる。
そして、謙信が一方で神がかりな側面を見せつつ、もう一方で現実的な戦国大名として振る舞わねばならなかった理由――それがなかなか従わなかった国人たちの存在であるとすると、パズルのピースがぴったりはまるのである。

経済に明るい軍神

意外かもしれないが、謙信は財政面にも積極的だった。
そもそも当たり前の話として、財政的に豊かでなければ五回の信濃遠征と十数回の関東遠征などできるはずがない。さらに謙信は二度にわたって上洛し、その際に将軍や寺社に多額の献金を行っている。
また、謙信は関東管領就任と上杉家襲名を鎌倉の鶴岡八幡宮で行っているのだが、この際にも多額の金を奉納している。「戦バカ」と思われがちな謙信は、その実相当の経済力の持ち主でもあったのだ。

では、その経済力はどこから来ているのだろうか? 答えは鉱山で産出された金銀と商品作物の交易である。
じつは、越後には複数の金銀山があった。有名な佐渡の金山が開発されたのは1601年(慶長6年)だが、それ以外にも各所に鉱山があり、謙信はそこから莫大な財産を得ていた。

一方、商品作物としては青苧(あおそ)というものが知られている。
この植物の繊維は、越後上布の原料になる。これは木綿が流通するより前の日本において一般庶民に親しまれた衣料品であり、府中湊や柏崎湊から越前・若狭を経由して京へ運ばれていった。謙信はその青苧商人から営業税を、商品を運ぶ船からは入港税を徴収して、やはり莫大な金額を得ていた。

経済に明るくなくては軍神もやっていられない――「神秘的イメージ」「圧倒的な武力」「ひそかな経済力」を合わせて、上杉謙信というカリスマは成立していたのだ。

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