島津四兄弟
三州統一戦の中で、貴久は嫡男の義久に家督を譲っている。
この義久に三人の弟――義弘・歳久・家久がおり、彼らがそれぞれに優れた武将であったことはすでに述べたとおりだ。四兄弟は力を合わせ、島津氏の勢力を一気に拡大していく。
長男・義久はいわゆる典型的なリーダー型の人物で、弟・義弘の壮絶な活躍の前に影が薄くなりがちだが、徳川家康は彼をかなり高く評価していたようだ。たとえば家康は耳川の戦いについて「恐ろしい大将だ」と褒め、また義久自身が「自分自身は大きな働きをしていない」と謙遜すると、「自分の働きでなく勝利を収めることこそ、源頼朝以来のまことの大将の道である」とさらに褒めたという。
これに加えて島津家をしっかり後世に残した手腕も考えると、義久は相当の人物だったと考えるべきだろう。
次男・義弘は朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで奮戦した猛将であり、小説やゲームなどで題材にされることも多いので知っている人も多いだろう。戦場の武勇の一方で部下を大事にし、家族や一族を大事にする人物であり、彼を慕うものも多かったという。
三男・歳久は稀代の知将として名高い。しかし一方で武士として意地を重んじる側面もあり、のちに豊臣家に降伏した際、部下に命じて矢を射たせることでせめても意地を示した――などという話も伝わっている。
四男・家久は当時第一の戦術家と評される人物で、島津家の命運を決する大きな戦いにすべて参加し、数々の功績を挙げた。織田政権が絶頂期にあったころ、中央に赴いて織田信長・明智光秀らと交流をもったというエピソードもある。
さて、状況が目まぐるしく変わっていく動乱の時代において、彼らのようにリーダー以外にも優秀なサブリーダーが三人もいることがどれだけ有利なことかはいうまでもないだろう。特に今のように電話もインターネットもない時代のこと、当主の意思を支配領域の隅々まで浸透させようとしても無理がある。
そんなときに、「当主の弟」という誰もが一歩譲らざるを得ない権限によって、「あれはああしろ」「これはこうしろ」と命じられる人物がいれば、状況への適応力はぐっと上がる。
四兄弟期の島津家が圧倒的な強さを誇った理由の一つに、こうした体制があったことは間違いないだろう。
大友・龍造寺との決戦と「釣り野伏せ」
1578年(天正6年)、北九州に覇を唱える大友宗麟が、伊東氏の残党を救援するべく日向へ侵攻してきた。
これに対して義久は弟の義弘・家久をひきつれて出陣し、両軍が高城をめぐって激突することになった。
この戦いで島津軍は大友軍をおびき寄せて叩くことに成功し、撤退する敵を追撃して大きな打撃を与えた。特に大友軍は耳川という川を渡るところで大損害を受けたため、一般に耳川の戦いと呼ばれる。
これ以後、大友氏は衰退を始め、代わって肥前の龍造寺氏が急成長を始めた。この一族はもともと小弐氏の家臣だったが独立し、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)とその義弟・鍋島直茂(なべしま なおしげ)の時代に最盛期を迎えた。
宗麟の日向侵攻を切り抜けた義久は、次に肥後ヘ目を向けた。ここには長年の宿敵である相良氏がいたため、順当な選択といえる。この侵攻は順調に進み、1581年(天正9年)には相良氏を降伏させることに成功している。
こうなると、いよいよ島津・龍造寺の決戦が日前に迫ってくる。
激突のきっかけは1582年(天正10年)、肥前の有馬氏が龍造寺氏から離反して、島津氏に救援を要請したことだった。
龍造寺隆信率いる軍勢に脅かされた有馬氏のために、義久は弟の家久が率いる軍勢を援軍として送った。
しかし、島原の地で対峙した戦力は龍造寺2万5千に対し島津・有馬連合軍は8千人。これではとても勝負にならないかと思われたが、家久は「沖田畷(おきたなわて)」という湿地(畷とは湿地のこと)に龍造寺軍を引きずり込んで大軍の動きを止め、決死の覚悟で突撃した、という。
この綿密な作戦と思い切りの良さが効果を上げ、なんと総大将・隆信を討ちとることに成功する。これを沖田畷の戦いと呼び、以後龍造寺氏もまた衰退していくことになる。
ここで紹介した二つの戦いで活用されたのが、島津家の得意戦術「釣り野伏せ」である。
これはいわゆる囮戦術で、まず囮部隊が敵を伏兵の待つ場所まで誘き寄せ、タイミングを合わせて包囲・殲滅する――というもの。場合によっては「先鋒の部隊には何も知らせず突撃させ、本当に潰走させて囮にする」という壮絶な方法さえとられたという。
また、島津家はその支配領域のなかに鉄砲が初めて伝来したと伝えられる種子島をもち、それだけにごく早い時期に鉄砲を軍に導入して本格的に大量配備した大名のなかのひとつだ。
そして、この鉄砲という兵器は釣り野伏せと非常に相性がいい。こうしたところも、島津の強さの背景だったのだろう。