謙信の死から始まる内乱
その謙信は1577年(天正5年)に織田軍を手取川の戦いで破った後、次の遠征(関東遠征で今度こそ北条家を打ち破った後の上洛を目指していたという)の準備中に死去する。
享年49歳、死因は酒の飲み過ぎによる脳溢血とされる。
そして、ここで上杉家に大問題が起きる。
謙信という絶対的なカリスマの存在によって無理やりまとめられていた複数の勢力が分裂を始めたのである。アレクサンダー大王の時代から現代の企業グループまで、カリスマによって一代でまとめ上げられた組織というものは、さまざまな対立や矛盾をカリスマの力や気配り、存在感で打ち消しているものなので、その本人がいなくなれば四散するのが当然だ。
しかも悪いことに、謙信は生涯妻帯せずに過ごしたため、実子がいなかった。代わりに三人の養子がいたのだが、後継者をそのうちの誰にすると明確に決めないままに死んでしまったのである。
当然の流れとして、その養子たちを上杉家に組み込まれていた各勢力が擁立する形で、謙信の後継者の座をめぐる内乱が起きた。
この時の有力候補者は二人。
ひとりは上杉景勝で、彼は既に紹介したように上田長尾家出身であり、謙信の甥でもあった。そのため、上田長尾家のもともとの支持母体である上田衆や、謙信の側近たちの多くが彼に味方した。
もうひとりは上杉景虎で、彼は北条氏康の子である。一時期上杉家と北条家が同盟していた際の人質として越後にやってきたのだが、その容姿と才覚を謙信に気に入られ、養子になったのだという。彼には実家の北条家やその同盟者である武田家などの外部勢力や、謙信に関東管領の地位を譲って越後にいた上杉憲政などが味方した。
この二人はそれぞれに謙信の跡を継ぐだけの力を持っていたが、「軍神」ほどのカリスマは持たず、また上杉家を構成・支持する勢力のどれかと深い関係があったため、それと対立する別の勢力との仲が悪かった。これでは「謙信の代わり」はできないのだ。
結果、春日山城で景勝の攻撃を受けた景虎は憲政の住む「御館」と呼ばれた館に逃げ込んで戦ったため、この内乱を「御館の乱」と呼ぶ。
この内乱に勝利したのは景勝だった。
そして半自立状態にあった国人たちのうち半分は景虎側に味方したので、彼らは没落の憂き目にあい、代わって上田衆ら景勝直臣の領地が加増された。すなわち、長いあいだ不安定だった上杉家当主の権力が、「御館の乱」を契機にようやく確立されたのである。
おそらく、これは景勝らのもともとの思惑の一部として存在したことであろう。
それを推測させる要因のひとつとして、「御館の乱」後に恩賞問題をめぐって騒動がいくつも起きていることがある。たとえば、謙信の側近として活躍した直江信綱が恩賞問題のもつれで起きた斬り合いに巻き込まれてとばっちりで殺されたり、活躍したにもかかわらず恩賞を与えられなかったことに激怒した新発田重家が織田信長と手を組んで反乱を起こし、長年にわたって景勝を苦しめたり、といったことである。
このような事件を見ると恩賞が景勝側近を中心に与えられたことは間違いないようであり、その目的は国人たちの力を削り、自らの力を増すことだった、といっていいのではないだろうか。