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【10大戦国大名の実力】戦国大名と「家」の基礎知識

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本編に入る前に、戦国大名と「家」の基礎知識を紹介したい。
しばしば誤解されがちなのだが、戦国大名のほとんどは独裁君主に支配された軍団ではない。むしろ、周辺に存在する中小武家の中で最も強い力を持つものがリーダーとして彼らをまとめあげる、それが戦国大名の姿とさえいえる。
だから当主といえども単独では何も出来ない。同じ一族のものがおり、何代も前から仕えている譜代の家臣がいて、彼らが「家」という集団を作って当主の手駒として動くからこそ、地元の国人衆や外様の家臣団もついてきて、初めて戦国大名という武力集団が形成されるのだ。

そのため、一族衆や譜代家臣などの「直属の部下」たちは代々の恩義や信頼関係、情や筋論などで動くことがある(この辺りの感覚は江戸時代の武士がもつ「忠義」の観念に近い)。
これに対し、国人衆や外様家臣はあくまで当主の提示する利益に価値を見いだすからこそついてくる。これは鎌倉時代の「御恩」と「奉公」の価値観そのままである。すなわち、見返りとして領地を認めてくれるからこそ、当主のために働くのだ。これを証明付ける史料として「安堵状」というものがある。鎌倉時代から主君は配下に対してそのような書状で領地の所有権を認め、忠誠を誓わせたものである。

これを逆にいえば、戦国大名という組織は常に内乱の可能性に晒されている、ということになる。なぜなら、一族衆や譜代の家臣は時に当主以上の力を持ち、当主に代わって自分こそが「家」と「戦国大名」の中心に成り代わろうとすることができるからだ。
そのため、当主は自分の支配領域を拡大するために家臣に力を与える必要がある一方で、自分のみの安全を守るために力を手元に集中せねばならない。この二律背反が彼らを苦しめるのだ。

戦国時代が後期に向かうにつれて、有力武家の当主たちは分国法(独自の法律)や検地、常備軍の形成、有力家臣の一族取り込みなどの手法を使って、自らを少しでも独裁君主に近づけるために努力していった。
そうした努力の結果として天下人の地位を掴みかけたのが織田信長であり、その遺産を活用してついに天下を統一したのが豊臣秀吉だった。しかし、彼らはあまりにも駆け足で天下に迫りすぎた。「織田家」にせよ「豊臣家」にせよ、これらの家を構成する一族衆や譜代家臣には天下を奪う力はあっても、リーダーたる当主亡き後に天下を維持するだけの力はなかったのである。

また、この二家にとっては有力な後継者をもてなかったのも大きい。信長には嫡男の信忠がいて、天下を受け継ぐ予定だったが、彼は父とともに死んでしまった。秀吉は甥の秀次を養子にとって一度は後継者に決めたが対立の末に殺してしまった。実子の秀頼は秀吉が死んだ頃まだ幼く、巨大な豊臣家を支える力などあるはずもない。
結果として、信長亡き後には織田家が崩壊して秀吉が台頭し、秀吉亡き後には豊臣家が崩壊して徳川家康が台頭した。しかし、家康は天下を掌握したすぐ後に息子の秀忠に地位を譲り、さらに全国の諸大名の力を削った上に自分が死ぬ直前になって豊臣家を滅ぼし、「徳川家」を安定させた上で死んだ。

こうして戦国の乱世は終わり、太平の江戸時代がやってくることとなったのである。そこに至るまでのダイナミックな歴史のうねりなども、本書で少しでも感じ取っていただければ幸いだ。

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