戦国時代、全国各地に国人、豪族、土豪などと呼ばれる中小の武家勢力が存在し、彼らの多くは誰に従うのかを必死に考えていた。それが家や家族を守ることにつながったためだ。播磨(兵庫県南西部)の別所長治もそうした選択に悩んだ末、過酷な戦いへ追い込まれた男である。
戦いの舞台となる播磨は、室町時代の頃から守護赤松氏の支配下にあった。守護は職名であり、幕府から警備、治安維持を任された存在だった。時の流れとともに権力が強化されていき、次第に強い力を持っていく。
長治の居城の三木城(兵庫県三木市上の丸町)は丘の上に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵を利用して建てられた城)である。別所氏は赤松氏の一族であり、播磨の東部を支配していた。
そこに一石を投じたのが、尾張の戦国大名・織田信長であった。信長は各地に家臣を派遣して、領地の拡大を図っている。中国地方の平定を任されたのが、信長の家臣・羽柴秀吉だ。だが、いきなり中国地方に行けば、播磨の諸将に後ろから攻撃されることにもなりかねない。まずは中国地方への玄関口である播磨の攻略が急務となった。
といっても、秀吉が中国地方の平定を任されたときには、長治はすでに信長に与していた。本来ならば争う必要はなかったわけだ。ところが、1578年(天正6年)2月、安芸の大名・毛利氏と結んで信長を裏切り、突如反旗を翻した。
播磨の国人は大きな力を持つ織田氏と毛利氏に挟まれて、どちらに味方するのかを決めなくてはならない状況にあった。どちらが勝つのかはわからない状態だったので、毛利氏につく者、織田氏に与する者に分かれている。長治が織田氏を裏切り、毛利氏に与しても仕方ないことだと言えるだろう。
秀吉は力攻めで三木城を攻略するのは困難と考え、別の策を検討した。そして三木城が孤立した丘の上にあることに注目して、兵糧攻めにすることを決めた。兵糧攻めというのは敵の食糧補給路を断ち、食べるものをなくすことで相手を負かす攻め方である。
ところが、三木城側は秀吉側の裏をかいて、毛利氏の援助を受けていた。秀吉が見落としていた補給路があり、それに気がついた秀吉はすぐにこの補給路も絶っている。
それでも戦いは長引き、1580年(天正8年)まで続いていた。この頃になると、別所方では食料の不足が深刻になってきていた。松の皮をはがして柔らかい部分を食べて飢えをしのぎ、鎧を着る力も残っていないような状況である。
秀吉から講和の条件が示され、別所長治ら主だった者の切腹と引き換えに、城内の者の命は助けるという条件で開城の運びとなった。
切腹前に秀吉は長治に酒肴を贈り、長治はそれを受け取った後に自刃して果てた。城は開城し、播磨一帯が信長の支配下となっている。