いよいよ全国でお花見がはじまってますが、そもそもこうした花見の風習はいつ頃はじまったのでしょうか。
現在の花見の風習は、8代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などにサクラを植樹して、さらには花見客用の飲食店までつくらせて、庶民の花見を奨励したのがはじまりといわれています。
なんと徳川吉宗だったんですね。暴れん坊将軍です。
「享保の改革」は米価や物価の安定政策、貨幣政策のほか、町火消しの創設や目安箱の設置などが教科書によく出てくる施策ですが(小石川養生所をつくったとかね)、たとえば隅田川堤のサクラは治水対策として植えさせたそうです。花見で人が集まって、川岸の地面が踏み固められると。誰の提案か知りませんが、めちゃくちゃ頭がいいですね。
また鷹狩場に指定されていた飛鳥山を娯楽の場として整備して、庶民が安心して花見ができる場所として開放したそうです。ある種の治安対策ですね。吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったという記録も残っているので、この施策にかなり積極的に取り組まれたことがよくわかりますね。
ちなみに吉宗がこうしてサクラを植樹して、花見を奨励するまでは、江戸のサクラといえば寛永寺程度しかなかったそうです。この寛永寺は、3代将軍家光が上野に建てたお寺で、ここに吉野の桜を移植したんですね。
吉宗は破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君のひとりとの評価される一方で、増税政策によって百姓一揆の頻発を招いたという事実もあります。
作家の井沢元彦さんは『逆説の日本史』の中で「吉宗は名君である点も多分にあるが、経済に関しては全くの暗君だった」と指摘されています。その反面、経済重視政策を推し進めながら「賄賂政治」を行なったとして悪名高い田沼意次の再評価をしていて、このあたりはみなもと太郎さんの歴史観と同じですね。
おもしろそうなので読んでみようと思います。