陸奥の二本松城(福島県二本松市)は奥州探題・畠山満泰が1414年(応永21年)に城館を築いたのが始まりとされる。白旗ヶ峰の頂上に立つ山城で、霧が渦巻く「霧ヶ峰城(霞ヶ城)」の別名を持つ。
以後、百数十年にわたって畠山氏の居城とされてきたが、1586年(天正14年)に「独眼竜」伊達政宗の攻撃を受けて落城した。豊臣秀吉による奥州仕置が行われたのちに、家臣の蒲生氏郷が入った。その後は城主を変えながら、最終的に1643年(寛永20年)に入城した丹羽氏の時代で幕末を迎えることとなる。幕末期には少年ばかりで編成された部隊、二本松少年隊の悲劇で有名である。
1585年(天正13年)、当時の城主・畠山義継は、親交のあったか小浜城主の大内定綱が政宗に敗れたことにより、危険を察して伊達氏に属することを表明した。しかし政宗はこれを受け入れなかった。彼の父・輝宗の説得によってなんとか政宗は態度を和らげて両者の間に交渉が行われることになった。
ところがその後、義継はお礼を言うためにと輝宗のもとに行くと、彼を拉致して二本松城に逃げ帰ろうとしたのである。政宗が彼に突きつけた条件が「今の畠山氏の領地のうち、五つの村だけ保有を許す。さらに、人質として息子を差し出す」という非常に厳しいものだったのが原因だったのだろうか。ともかく、当主の父親を拉致されてほうっておくわけにもいかず追撃するのだが、その過程で結局義継も輝宗も両方死んでしまう、という悲劇が起きた。
これを受けて、政宗は「輝宗の弔い合戦」と称して二本松城を攻めた。
しかし二本松城は堅固な城で、伊達軍の攻撃によく耐え、なかなか落ちなかった。一方、これを知った奥羽の反伊達勢力の諸氏は、二本松城救援の連合軍を結成し、伊達方の城を落としながら進み、二本松城の南方にある前田沢に陣を敷いた。
連合軍の出陣を知った政宗は、伊達軍の半分を二本松城に残し、彼自身は連合軍のもとへ向かう。敵が布陣する前田沢の北に位置する本宮城に入った政宗だったが、兵力の差が大きかった。そこで、翌日の戦いでは常に劣勢のまま、守りに徹することを余儀なくされてしまった。このまま戦いが続けば、政宗はさらなる窮地へ追い込まれることになったろう。
ところが、後世に「人取り橋の戦い」と呼ばれるこの戦いは、ここで終わってしまう。連合軍が引き揚げていったからだ。原因としては、連合軍側の中心人物・佐竹義重の部将が下僕に殺されたこと、あるいは佐竹氏の本国である常陸において、義重の留守を狙って諸勢力の蠢動があったこと、などが挙げられている。
義重が撤退してしまえば、他の大名たちもこれ以上戦っているわけにはいかず、引き揚げるしかない。奇跡的に窮地を脱した政宗は、連合軍の再来を危惧してしばらく本宮城に留まっていたが、その危険がないとわかると再び二本松城の攻略に取り掛かり、ついに攻め落としてしまった。
奮戦むなしく落城してしまった二本松城だが、一度は耐えて後詰決戦に持ち込んだのだから、その健闘は十分に讃えられるべきものといえよう。