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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

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筑前の立花城(福岡県新宮町、久山町、福岡市にまたがる立花山)は豊後大友氏の一族にあたる大友貞載が築き、その子孫である立花氏が城主をつとめた。貿易で栄えた港町・博多を見下ろす位置にある筑前北部の要所であり、この堅固な山城をめぐってはたびたび戦いが行われた。

1431年(永享3年)には中国の大内氏が「一揆を鎮圧する」という名目で侵攻し、立花城を落とした。
その後は大内氏と大友氏がこの城を奪い合っている。1539年(天文8)に両者が講和し、立花城が大友氏に返されることになったが、この約束は実現せず、大内氏の滅亡後にようやく立花城は大友氏の下に戻った。
立花城は九州へ侵攻して来た毛利氏との戦いで活躍して立花氏を継承した戸次鑑連(立花道雪)から、その養子・立花宗茂へと譲られた。

その後、豊臣政権下ではこの地は黒田長政のものとなる。その他多くの山城と同じく、立花城もまた天下泰平の時代には無用の長物であり、長政は福岡城を築いて居城とし、こちらは廃城とした。
中国地方と九州地方が接する激戦地であるこの地は、戦国時代においては大内氏あるいは毛利氏と大友氏の激闘の舞台になったのはすでに見てきたとおり。特に激戦となったのが、1568年(永禄11年)に城主・立花鑑載(たちばな あきこと)が毛利氏へ裏切ったことに端を発する戦いである。大友氏が立花城を包囲すると、毛利軍は鑑載に救援を送ってこれを支援。しかし、鑑連らが率いる大友軍の圧倒的な兵力を前に、3ヶ月に及ぶ攻防戦の末に立花城は落城。鑑載は自刃した。

しかし、毛利氏は北九州を諦めなかった。反立花勢力と協力して本格的に北九州への侵攻を開始する。
諸城を落としながら立花城を奪回するチャンスを窺い、やがて吉川元春と小早川隆景が立花城の山の麓に布陣した。立花城側には大友氏から援軍が送られ、両者は激しい戦いを繰り広げる。籠城戦から半月が経ち、ついに立花城は落ちた。この戦いでは鉄砲・弓矢・投石といった飛び道具が飛び交い、両軍に多大な死者を出すこととなった。

その後も両者は対陣を続けた。ところが、毛利氏の本拠である中国地方で、大内氏と尼子氏という毛利氏に滅ぼされた元二強の残党が相次いで放棄したため、北九州を攻めているどころではなくなる。
こうして毛利氏は引き揚げ、わずかな兵だけが残された立花城は1570年(元亀元年)に開城。幾度にもわたる争奪戦の末、ようやく立花城は大友氏の手に落ち着いたのだった。

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