攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

【時期】1607年(慶長12年)
【舞台】佐賀藩
【藩主】鍋島勝茂
【主要人物】鍋島直茂、鍋島勝茂、龍造寺高房

怪談「猫化け話」にこめられた龍造寺家の悔恨

数多くのフィクションの題材となったことから、別名「化け猫(猫化け)騒動」とも呼ばれるのがこの鍋島騒動だ。
1607年(慶長12年)、肥前の大名・龍造寺高房が江戸藩邸で妻を斬り、本人も自殺を図るという事件が起きた。家臣の制止によって一命を取り留め一旦は快復したものの、乗馬大会で無理をしたため傷が開き亡くなってしまう。22歳という若さだった。その後、高房の死から1ヶ月もしないうちに父の政家も亡くなり、龍造寺家は断絶となった。

龍造寺家の領地は家臣である鍋島家が相続し、佐賀藩を成立させた。
その後、佐賀城下には自装束を着て馬に乗った高房の霊が現れると噂されるようになる。この噂と没落した龍造寺家の悲劇が組み合わさり、生まれたのが「猫化け話」と呼ばれる怪談だ。

「猫化け話」にはいくつかパターンがあるものの、大体の筋書きは同じである。佐賀藩の二代藩主・鍋島光茂の時代、城下に住む龍造寺又一郎という盲目の青年がいた。彼は囲碁に長けていたため、囲碁を好む光茂によってたびたび城に呼ばれていた。
ところがある日、囲碁の最中にふとしたことから光茂の怒りを買い、又一郎はその場で斬り殺されてしまう。
これを知った又一郎の母も、飼い猫に「この恨みを晴らしてくれ」と言い遺して自害した。その血を浴びた飼い猫は、化け猫となって姿を消した。
その日から、光茂は毎夜高熱にうかされるようになる。光茂に仕える者たちが彼の周辺を警戒するものの、みな途中で寝入ってしまって原因はつかめないまま。そんな中、近習頭の小森半左衛門は、光茂のお気に入りであるお豊の方という女性の動きが怪しいことに目を留める。小森は槍の名手の千布本右衛門に、お豊の方に気をつけるよう告げた。

その夜、本右衛門が膝に錐を立てるという手段で眠気をこらえていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。かと思うと、障子にうつるお豊の方の姿が巨大な猫に変わったのである。又一郎たちに飼われていたあの猫が、お豊の方を食い殺して彼女になり代わり、光茂を苦しめていたのである。
千布は槍で化け猫と戦い、ついにこれを倒した。その後、又一郎とその母は光茂によって手厚く弔われ、光茂を襲っていた謎の病も癒えていったという。

これが「猫化け話」の筋書きである。
龍造寺家の鍋島家に対する悔恨がこのような大衆向けの怪談を生み、やがて歌舞伎として演じられるまでになったのだ。
有名なものとして、三代目瀬川如皐作の歌舞伎狂言『花嵯峨猫魔稗史』がある。しかし、1853年(嘉永6年)に初演予定だったこの『花嵯峨猫魔稗史』、佐賀藩から抗議があって初演を中止にしたという裏話も存在している。

このような怪談が生まれたのには、「悔恨」と言われる明確な理由があったからだ。龍造寺家が途絶え、家臣である鍋島家がその領地を継いだというだけでは、龍造寺家が鍋島家に悔恨を抱く理由にはならない。そのあたりの事情を、龍造寺家と鍋島家の関係とともに追っていくことにする。

龍造寺家は、かつて九州北部一円を支配していたことのある大名家だ。
ところが、1584年(天正12年)に当主の龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で敗死すると、一気に衰退をはじめる。豊臣秀吉が九州征伐後の1587年(天正15年)から行った仕置きにより、隆信の嫡子・政家に肥前7郡が安堵されたものの、この年に政家が隠居。跡を継いだ高房はまだ5歳だったために、鍋島家が実権を握ることになった。これは秀吉も認めた人事であり、この頃から家督と支配権は分かれ、龍造寺家を領主としたまま、しかし実際の支配権は鍋島家が有するようになっていく。

とはいえ、最初から鍋島家が龍造寺家を乗っ取ろうとしていたわけではない。龍造寺家の代わりに領国経営を任された鍋島直茂は、義母である慶闇尼(けいぎんに)の勧めを受けて高房を養子にしたりと、龍造寺家を守っていくために力を尽くしていく。
しかし1592年(文禄元年)、秀吉が朝鮮出兵を行った時、これに参加した直茂の軍には龍造寺家の一門や家臣も含まれていた。この戦いを経て、鍋島家が龍造寺家の上に立つという関係性がより一層強くなったと思われる。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで龍造寺家・鍋島家はともに西軍に味方したため、存続の危機にさらされてしまう。
そこで直茂の子・勝茂は、西軍の敗報を聞いてすぐに家康に謝罪し、西軍に与した柳川城の立花宗茂を攻撃、開城に持ち込んだ。さらに戦後、直茂の次男・忠茂を人質として差し出すことで、彼らは減封を免れたのである。
1603年(慶長8年)には、家康のはからいで高房が次期将軍・徳川秀忠に仕えるようになる。しかしこのことは、龍造寺家の形骸化をさらにはっきりさせることになった。高房が江戸詰めになったところで、領国の運営には問題なかったからだ。

このような状況に、高房は当然ながら不満を抱き、龍造寺家の再興を果たそうとした。
しかしその2年後には、勝茂が家康の養女を要って徳川家との結びつきを強め、さらに江戸城や駿府城の手伝い普請も命じられている。どんどん勢いを伸ばしていく鍋島家に、高房は家の再興を絶望的に思ったのだろう。
そして起こったのが、冒頭の自殺未遂事件だったのだ。

隠し子発覚! 龍造寺家再興に乗り出すも……

高房、そして政家の死による龍造寺家断絶後、龍造寺家一門が江戸に集められ、相続人について話し合いが行われた。
一門の者は鍋島家の功績を認め、直茂はもう高齢であるとして、子の勝茂に龍造寺家の家督を相続させることを提案。これが認められ、鍋島佐賀藩が成立することとなった。分離した状態にあった家督と支配権が、ようやく統一されたのである。

だが騒動はここで終わらなかった。断絶したと思われた龍造寺家だったが、高房には隠し子がいたのだ。高房が亡くなった当時4歳だったその子は名を初法師といい、その後伯庵と改名している。
この伯庵が亡き父と意を同じくして、龍造寺再興に乗り出したのだ。1634年(寛永11年)、三代将軍・徳川家光が上洛した際に、伯庵は龍造寺家再興を訴え出た。この訴訟は無視されたものの、伯庵はその後も数回にわたって幕府に赴き、訴えを繰り返した。しかし「伯庵は高房の嫡子ではない」として彼の訴訟は却下され続け、ついに彼の扱いに困った幕府は、伯庵を会津お預けにするという処置をとる。

こうして1642年(寛永19年)、伯庵は会津に預けられた。龍造寺家再興の望みは、ここに完全に潰えたのである。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する