三河を統一した家康は続いて東へ勢力を伸ばし、遠江一国を手中へ収めた。
三河国主としての家康は先祖伝来の岡崎城を拠点にしていたが、領国が広がるとこれでは不便になる。
結果、家康は新たな居城として浜松城を築いた。三方原台地の東南端に築かれた城で、家康は駿府へ移るまでこの土地を拠点とした。
しかし、家康はまったくイチから浜松城を築いたわけではない。
この場所はもともと「曳馬(引馬。ひくま)」と呼ばれていて、曳馬城という城があった。最初の築城は15世紀、吉良氏の家臣だった巨海新左衛門尉(おおみ しんざえもんのじょう)という人の手によるものだったとされる(今川氏による築城という説も)。
これが16世紀になると今川氏の支配下に置かれ、今川氏真の頃には飯尾連竜(いのお つらたつ)が城主として守っている(ちなみに、今川支配下にあった頃の曳馬城には、今川家臣のさらに下についていた豊臣秀吉が訪れたことがある……という逸話も)。
ところが、その連竜が今川氏に反旗を翻したところ、策謀によって駿府へ誘き出された結果として殺されてしまう。残された曳馬城家臣団内部の対立を家康が調停し、支配下に収めたという経緯であるわけだ。
では、どうして曳馬から「浜松」と名を改めることになったのか。元の名が「馬を引く」と読めるが、これは退却・敗北を意味するから縁起が悪い、ということになったらしい。
現代の常識で考えると「そんなことでいちいち名前を変えるのか」と思ってしまうが、近世以前の人々は私たちが思うよりもずっと迷信深く、縁起を担ぐ。ましてや、命懸けの戦いをする戦国武将、戦国大名が不吉を嫌い、吉兆を喜ぶのは当然であろう。
ちなみに、似たような話としては、織田信長が生まれた場所とされる勝幡城のケースがある。
もともとこの地は「塩畑」と呼ばれていたが、塩と畑の相性がいいはずがない。これは不吉ということで、織田信定(おだ のぶさだ。信長の祖父)もしくは信秀(信長の父)が縁起の良い「勝ち旗」に通じる「勝幡」へ改名した、という。