1570年(元亀元年)、遠江に進出した徳川家康が、三河・遠江二ヶ国の支配拠点として、さらには甲斐の武田信玄と駿河の今川氏真(いまがわ うじざね)との戦いに備えるために築いたのが、三河の浜松城(静岡県浜松市)だとされる。この地に元は引馬城(ひくまじょう・ひきまじょう)という城があったが、これを奪った家康がその西に大規模な平城を築いたのが始まりだ。
浜松城に迫った最大の危機、それは1572年(元亀3年)の武田氏による侵攻だった。
信玄は軍をいくつかに分けて遠江・三河を蹂躙した。そして信玄の本隊が浜松城に接近したのだが、なぜか攻撃しようとはせず、城をかすめるように三方ヶ原を西へ進んでいった。
この時の信玄の思惑について、二つの説がある。ひとつは「西上して織田信長と戦うことが主目的であったので、家康は放置した」というもので、もうひとつは「家康を浜松城からおびき寄せるのが目的だった」というものだ。果たしてどちらが真実かはわからないが、結果として家康はおびき出された。2万5千(4万とも)という信玄の軍勢に、1万1千とされる少数で戦いを挑んだのだ。いわゆる「三方ヶ原の戦い」である。
もちろん、家康も意味なく戦ったわけではない。明確な理由があったようだ。彼が恐れたのは「二つの目」であったろう、と考えられている。
ひとつは、信長の目が怖かったこと。徳川方には家康率いる軍勢の他、織田信長から送られてきた援軍も加わっていた。彼らは実質的には家康の「監視役」であり、ここで信玄を黙って見過ごせば、生き残ったとしても信長に何を言われるかわからなかった。
もうひとつは、支配下にある諸勢力の目が怖かったこと。この時期、徳川と武田の間で揺れ動いていた遠江・三河方面の国人や地侍は、信玄の侵攻により武田方に雪崩を打って味方するようになっていた。勝敗は二の次にしても、ここで信玄と戦わなければ、彼らが完全に武田方になってしまう恐れは非常に大きかった。
こうして両軍が三方ヶ原で激突した。攻城戦ならともかく、野戦で二倍以上の差があれば、勝敗など最初からわかりきっているようなものだ。戦闘は夕方から始まったが、その日のうちに徳川軍は浜松城に向けての壊走を始めた。
この撤退に際して、有名なエピソードがある。譜代の家臣たちが身代わりとなることでかろうじて命を拾い、浜松城に逃げ込んだ家康は、留守の武将たちにある奇策を命じた。城門を開けたままにさせ、篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた、というのである。
この様子に驚いた武田の追撃部隊は策を恐れてそれ以上進めず、そこを徳川軍が逆襲した、という。『三国志演義』で知られる古代中国の伝説的天才軍師、諸葛亮の策にも通じる「空城の計(くうじょうのけい)」である。
――残念ながら、この話は創作の色が濃い。徳川氏の天下となった後世、大敗した徳川軍を少しでも持ち上げるために作られた話、とする説のほうが有力なのだ。この他にも、この戦いの直後に徳川軍が夜襲をかけ、鉄砲の音に驚いた武田軍の兵士が多く崖に落ちたともいうが、これもやはり後世の誇張、徳川氏に対する「ゴマスリ」の類と考えるべきなのだろう。
それでも、城に籠もる徳川軍をおびき寄せた信玄に、城をえさに城を守った家康と、虚虚実実の駆け引きがなかなか面白いので、ここに紹介したものである。
ちなみに、ここで手痛い損害を蒙った徳川氏、また東方面の盾である徳川氏が敗れたことから武田の攻撃に晒されるかに見えた織田氏だが、この戦いは彼らにとって致命的なダメージにならなかった。まもなく、信玄が病死したからだ。以後、情勢は新たな局面を迎えることになるが、それはまた別の話だ。