3代・氏康と「河越夜戦」
その氏綱の病没により跡を継いだのが、三代目の氏康だ。そして代替わり直後、危機が迫る。
1545年(天文14年)、北条家の躍進に危機を感じた古河公方と両上杉家が中心になって、関東の国人たちのほとんどが参加する反北条連合軍が、北条綱成(ほうじょう つなしげ)が守る武蔵の重要拠点・河越城に攻めよせたのだ。
しかも、武田・今川の両家とも手を組んで「北条包囲網」ともいうべきものが形作られたから、絶体絶命の危機だ。
これに対して、氏康はまず武田信玄を頼る形で今川義元との和睦を成立させた。
ついで、河越城を救援に出陣し、自軍の何倍もの兵力の連合軍に対して偽の降伏の使者を送るという策を用いて夜襲をしかけ、これを撃退することに成功する。いわゆる河越夜戦である。
この戦い以後、関東情勢は完全に北条側へ傾いた。河越夜戦で当主を討ちとられた扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉家も北条家による圧迫に耐え切れず、1552年(天文21年)に上野を放棄して越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って逃げ延びた。
また、氏康は古河公方・足利晴氏(あしかが はるうじ)に圧力をかけてその子の義氏(晴氏と氏綱の娘のあいだにできた子)に代替わりをさせ、これも手中に収めた。まだ北関東・常陸の佐竹氏や房総半島・安房の里見氏などが残ってはいたが、この氏康の時期に関東はほぼ北条家の手に落ちたといえる。
武田・今川・上杉との複雑な因縁
氏康の代には甲相駿三国同盟が締結された。
甲斐の武田信玄・駿河の今川義元、そして相模の北条氏康は以前から何度も各地で合戦と和睦を繰り返していた関係だったが、今川側の働きかけによって三者同盟が締結された。氏康がこうした同盟を結ぶに至った理由は、関東各地に残る反北条勢力を打倒することに集中したかった、ということであるようだ。
この時期には彼らを結集できるような大義名分をもつ名門は関東にはいなかったが、数年後には氏康をおびえさせる強敵が北より現れる。山内上杉家と関東管領を継承した上杉謙信が、関東遠征を敢行したのである。
特に1560年~1561年(永禄3年~4年)に行われた最初の関東遠征は大規模で、関東中の反北条勢力が結集され、11万3000という大軍で関東を南進、ついに居城・小田原城を包囲してしまう。
しかし氏康はこの攻勢を1ヵ月余りにわたって耐え、ついに上杉軍を士気減退と兵糧切れに追い込んだ。
小田原城が包囲されたのはこの時だけではない。
今川義元の死によって今川氏が衰退すると武田信玄によって三国同盟が破られ、これに対して氏康は謙信と同盟を組んで信玄に対抗しようとした。結果、1569年(永禄12年)に信玄の軍勢が小田原城を取り囲むが、この堅城を攻め落とすのは難しいと判断するや速やかに兵を引いてしまった。またしても氏康は強敵を退けたのである。
信玄による小田原攻めの2年後、氏康は病没して、すでに家督を継承していた氏政の代となる。その際、氏康は遺言として「自分の死後に謙信と手を切り、信玄と手を組むように」と言い残したとされる。
その背景には、上杉家が同盟の条件だった信濃遠征による武田家への牽制を行わなかったことなどがあったようだ。
この氏康から氏政への家督継承の時期に整備されたと考えられるのが、支城制度だ。
これは、各地域に当主の兄弟を始めとする北条一族の人間を支城主として配置する、というものだ。氏康は彼らに地元の有力国人家を継承させてその勢力を吸収し、北条氏の支配下に一枚岩の軍団を作ろうとした。
また、この支城それぞれにはランクがあって、功績を挙げた者はよりランクの高い城の城主に、などということもあったようだ。
通常、戦国時代の城主というのは「もともとその地域で強い力を持っている武将」であることが普通である。しかし、この支城制度はまるで現代企業の本店支店制度のようで、非常に先進的なシステムであるといえよう。
こうして配置された支城主たちの下には、「○○衆」とよばれる軍団が構成され、いざという時には地域を防衛する軍事力となった。
氏康という優れた指導者が死んで、家督が4代・氏政や5代・氏直といった後継者に受け継がれていっても、豊臣秀吉が大軍をもって攻め込むまで決して破られることのなかった関東の組織力は、このようにして形成されたのである。
しかし、この強さが秀吉による小田原征伐の際には、どうやら裏目に出たようだ。