上杉謙信、周辺大名を脅かす
為景の跡を継いだのは嫡男の晴景だったが、彼は病弱で混乱する越後を治める力がなかったようだ。
そこで浮上してくるのが弟の長尾景虎――のちの上杉謙信である(本コラムでは謙信で統一)。国人反乱の鎮圧などで武名を上げた彼は次第に兄と対立するようになるが、守護・上杉定実(うえすぎ さだざね)の仲介によって兄の養子となり、居城・春日山城に入って長尾家の家督を継ぐことになる。
定実が死んで越後上杉家が断絶した後に幕府の承認を得て守護と同格の地位を獲得した謙信は、さらに上田長尾家の政景(謙信の姉・仙桃院の夫で、のちに謙信の養子となる景勝の実父)による反乱も鎮圧して、実質的な越後の支配者としての位置づけを確立させる。
そして、彼の眼は外へと向けられることとなるのである。
謙信の対外遠征として名高いのは、武田信玄との五度にわたる「川中島の戦い」と、十二回(それ以上という説も)にわたる関東への出兵であろう。ここからはそれぞれについて紹介する。
前者は以前から謙信と親交があった北信濃の領主・村上義清らが信玄に追われて越後へ逃げ込んだことを発端とするもので、北信濃の支配権をめぐって戦いが繰り返された。そのほとんどは小競り合いやにらみ合いに終始したが、「八幡原の戦い」と呼ばれる第四次合戦だけは例外的に激しい戦いとなり、謙信と信玄が一騎打ちしたという伝説も生まれて有名になっている。通常、「川中島の戦い」と言う際は、この第四次合戦を示す。
一方の後者は北条家との関東をめぐる勢力争いに敗れた山内上杉家当主・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)がやはり謙信を頼ったことから始まる。
謙信は度々関東へ遠征し、小田原城を取り囲むなどして北条氏を脅かした。また、憲政の求めに応じて山内上杉家の家督と関東管領の地位を継承した。ここから江戸時代の米沢藩につながる上杉家の歴史が始まるため、以後を「米沢上杉家」とも呼ぶ。
ちなみに、彼が「謙信」を名乗るのは出家後なので、さらに先のことである。
関東出兵に隠された思惑?
通常、戦国大名の遠征は土地を得るために行われるものである。
それは大名の勢力を拡大するものであると同時に、家臣団を満足させるための褒美でもあったからだ。にもかかわらず、謙信は度重なる遠征によってあまり領地を獲得していない。得たのは信濃や上野の一部程度である。
一般には、こうした事情を「謙信は義によって立ち上がったのであり、見返りは求めていなかったのだ」と解釈することが多い。彼の神がかり的なイメージ、また当時はほぼ有名無実化していた関東管領という地位をあえて引き継いだことや、たびたび幕府や朝廷に贈り物をしたことなどからくる「古いものが否定される動乱の時代に、旧来の価値観を守ろうとした男」というイメージと合致しているためだろう。
しかし、近年では謙信の度重なる遠征には別の目的があったのではないかとする見方も生まれている。
それは謙信の関東遠征は「秋か冬に出発して年内もしくは春・夏に帰ってくる」という農閑期に合わせたものが多かったこと、また越後のような二毛作ができない地域では、春から夏にかけては常に飢饉状態であったという点に着目する視点である。
合戦に動員された兵たちは近郊の村まで出かけて作物や牛馬、人間の略奪をおこなうのが普通であった。つまり、謙信は作物が取れない時期に農民たちを兵士として動員し、口減らし&出稼ぎをさせていたのではないか――というのである。
従来の「義の人」「聖将」という謙信のイメージとは全く合致しないが、国人たちの勢力が強い(そして彼らの配下の兵士たちは多くが農民だった)越後で父の代から苦労していたことを考えると、謙信の新たな側面が見えてくるのではないだろうか。